個人が貶められると私は怒る

私はどうも、「誰とも違う特別な私」「たった1人の際立つ個としての自分」というものにかなりの価値を見出しているようなんである。

 

5年前までは会社員をやっていて、それも超一流企業でもなければ、超零細企業でもなく、まあわりと普通と言っていいような会社で、まわりがみんな普通に平社員として働いている中で自分も平社員で、そういう状況がガマンできなくて、辞めてしまった。私は、「もっと私という個人を輝かせてくれる職場で働きたい」と思ったと書けば、ちょっとだけカッコがつくような気もするけれど、まあ、単純に「目立ちたかった」だけです。ほんとバカなんだけど、脱サラしたのはフェイスブックのネタが欲しかっただけなんちゃうんか、って思わないでもない。

 

でも、それを後悔しているわけではないです。あのまま、「私ってなんて普通なんだろう…」「こんな普通の私には価値がないんだ…」と、鬱々と40代を過ごしていたかもしれないと思うと、それこそ恐ろしいです。今は、立場的にあんまり普通じゃなくて、安定もしてなければ成功もしてないけど、「普通の自分には価値がない」と思って生きているよりは、300倍くらい楽しい。あくまでも自分の価値観ですけど。

 

と、自分を肯定するためにこんな話をしようと思ったのではなくて、実は、他人の言う言葉で「個」である存在の個人を無理やり立場や環境やコミュニティや何かの単位や組織にひもづける、あるいは押し入れる、閉じ込める、そんな発言に、ものすごくカチンと来るのです。

 

たとえば、「あの人の服装、おかしいって自分で気づいてないのかな。奥さんとか、出かけるときに恥ずかしいと思って着替えさせたりしないのかしら」という発言に、カチンとくる。

 

しばらーく、なんでそんなにカチンと来るのか、わかっていませんでした。が、たぶんこれは、その服装のおかしい人と、その人の奥さんを、「夫婦」という単位におしこめようとしている考え方に、違和感を感じているのです。

 

誰かがどんな服装をしようと自由であるのに、それを非難した上で、さらにその個人の家族という立場の人間まで恥ずかしく思うべきだという考え方。それに、私は怒りを抱く。

 

立場上、夫婦であっても、家族であっても、何を誇りに思うか、何を恥ずかしく思うかは、自由であるはず。ましてや他人から、「なんで恥ずかしいと思わないのか」と責められる<筋合いじゃない>と書きかけたけど、「筋合い」こそが、立場に人を閉じ込める言葉だ。

 

別に、何か私に強烈なイヤな体験があったとか、そういうわけではないのだけれど、ただ、最近そういう風に自己分析した、という話。です。