物理的な肉体としての私
いろいろ、物理的な肉体としての私を知っている人に冗談を言ったり、愚痴ったり、毒づいたりしたいな、と思いつつ、もうFacebookでそういうことができなくなっているので、なんとなく、生きづらい。
少し前までFacebookは気心しれた友達ばかりで、なんというか、私が面白いと思って書いたことを面白いと思ってもらえるんじゃないか、と、そういう期待のできる場所だった。
今は、ちょっと知り合いや友人を増やし過ぎた。
こういう冗談を言いたい、と思っても、それを冗談と思ってくれない人がいるだろうな、とか、あーもう、これめっちゃ愚痴りたい、と思っても、まさに愚痴を発生させている本人がFacebookの友達になっているとかね。
生きづらいとまで書いたら言い過ぎだけど、まあ、Facebookが心からリラックスできる場ではなくなってきた、というのは事実なんですねー。
まあ別にいいんですけどね。Facebookが人生において普遍的に必要で重要なものかというと、全然そんなことないし、むしろ、以前の私がFacebookを神聖視しすぎていたというか、天真爛漫に使いすぎていたというか。過去の私と、今の私が違う、という、それだけのことです。
本当の私なんていうものはどこにもなくて、ただ、あるのはこの肉体と、その肉体が与える他人が受けた印象だけが、私という人間のすべてだと思う。
何をもってして、その人のことを理解できるかというと、その人の本質なんてものは永遠に絶対に理解できなくて、相手がとった行動と、それによってこちらが受けた印象、それがその人のすべてだと思う。
「誤解だ」と言われれば、「誤解させたのがあなただ」と思うし、「そういうつもりじゃなかった」と言われれば、「そういうつもりじゃなかった印象を与えたのがあなただし、それに対して訂正をしたのがあなただ」ということになると思う。
印象は、変わるものもあれば変わらないものもある。実際に接しない限り、変えられるタイミングは存在しない。1年前にいつも落ち着いて、こちらの連絡を好意的に受け止めていてくれた人が、1年後の今も落ち着いていて、こちらの連絡を好意的に受け止めてくれるとは限らない。
ずいぶん久しぶりにFacebookで連絡してみた人から、返事が来なくて、少々落ち込んでもいるのですよ。でも、そんなの仕方ない。だって、会えなかった間にその人に何が起こったか、そして今の今、どういう心境や環境でいるかなんて、連絡してみなければ分からなかったのだから。
なんつーか、みんな、物理的な肉体としての私のことも、ちったー大事にしろよ、と、そういうことです。