手放したから手に入ったわけではない

寒い、寒い、寒い。本格的に寒くなってきた、と書いてから1ヶ月くらいたったかしら。今が寒さの底、という気がする。本当に寒い。室内に入ってからも、しばらくコートが脱げない。

 

夫と別居して、親権も彼に譲るつもりで、しかも自営業だし、Facebookもさいきん更新してないし、孤独になるかなあ、と思っていたのだけれど、どっこいそんなことはなくて、社会のいろいろなところでつながりがあって、いろいろな人といろいろな話をする機会がある。

 

お金なんて要らない、と欲を断った途端にお金が入ってくるとか、もう恋愛なんていい、と思ったらすぐに出会いに恵まれるとか、そういうのって、法則でも覚悟の問題でもなんでもなくて、たまたま、そういう人が、そういう印象深いタイミングだから吹聴してるだけで、手放したとたんにそれが手に入る、っていうのは私は迷信というか、むしろ負け惜しみみたいなもんじゃないか、と思っている。

 

という、そんな前置きをしたうえで、孤独になってもいい、と思ってはみたものの、なかなか孤独にはならないものだなあ、というのが、実感としてあるわけです。

 

ね、こうして私が「実感」だとか書くことで、手放したとたんにそれが手に入る神話が、ますます強化されてしまうでしょ。別にそんなの、法則でもなんでもないですから。ただ、人間の脳って、そういうタイミングを運命だと思いやすかったり、印象深いことを選んで語ったりするから、それに引きずられなくていいんじゃないですかねー、って思います。

 

手放したとたんに手に入るなら、もう痩せなくていいや、って無頓着になったとたんにきれいに痩せたっていいと思うのですが、痩せることに興味をなくしてからというもの、私の体は素直に脂肪を蓄えつつありますからね。あ、もう痩せなくていいのね、努力、放棄するのね、ばんざーい、ってなもんです。三段腹が喜んでおります。

 

お金だって、ほしいほしいって思ってるわけじゃないけど、全然入ってこないしー。

 

世の中の、大半のことは偶然だと思うし、それを後から関連付けて、もっともらしく語ることで、人って自分以外をコントロールしたり、世界を自分の都合のいいように解釈したり、してると思うんですよ。

 

なんでこんなに意地悪なこと書いてるかって、なんだかいろいろ友達からありがたい言葉をもらって、自分が浮かれてしまいそうになっているから、それを戒めてる、みたいな気持ちですかね。

 

友達の言葉はとてもありがたいのだけれど。自慢したいわけじゃないので。

 

おやすみなさい。