一眼レフのカメラの話

頭の中のことをごちゃごちゃ書くのは意味がない気がしているので、目で見えて、手で触れるもののことを書きます。

 

私は、一眼レフのカメラをもっています。3年前(4年前になるのか?)、会社を辞めるとき、私は実はライター(物書き)になりたいと思っていて、文章は書ける、編集もできる、あとは写真が必要だ、と思って、退職金でカメラを買ったのでした。

 

初心者用のモデルだし、それほど高いものではなかったけれど、それまで使っていたデジカメとは全然撮れる写真が違って、どはまりしました。毎日、毎日、いろんなところ、いろんな人、いろんな場面の写真を撮って、少しでも自分のイメージに近い写真が撮れるように、カメラにくっついているいろんなダイヤルを回しまくって、完全オートのお任せモードよりも、自分で調整した写真のほうが好きになれるところを目指していました。

 

しかし、いつの間にやら、その熱意は冷めてしまった。去年、外国へ旅行したときにはもっていって、それなりにいい写真が撮れたので、満足していたけれど、それ以外のときは、最近はほとんどカメラに触っていない。

 

もったいない、とも思うものの、これを極める時間的、精神的な余裕がない。

 

趣味でも仕事でも、私には、「とにかくこれが好き」と言えるものがない。と、書いてすぐに思いつくのが、「とにかく書くことが好き」なのは確か。あー、そうか。

 

とにかく書くことが好き、だから、ライターになりたくてカメラを買ったのだったよ。ははは、素で忘れてた。自分の書いてる文章でこんな流れが来るとは思ってなかった。

 

写真を撮る練習をしているとき、空と、自分を撮っていた。なんでこの2つかというと、いくら撮りなおしても、何度撮っても、いつ撮っても、文句を言わないから。

 

空は季節によっても、時刻によっても、天気によっても、いつもいつも違う表情をしていて、そして、いつもいつも、美しかった。不動の美しさだった。不動でありながら、千変万化の美しさだった。だから、そのときそのときの美しさを、できる限り再現できるように、私はカメラのダイヤルを回し続けた。

 

それに対して、私を美しく撮るのは、できる限りだろうと何だろうと、とにかくそれはもう、めちゃめちゃ難しかった。自分だから、文句は言わない。けれど、自分だから、理想が高い。もっと美しいはず。あとちょっと美しく撮れるはず。ありもしない幻想の自分に、少しでも近づいた瞬間を切り取るために、私はシャッターを切り続けた。

 

この文章を書いている途中で、ふと家にあるスピッツのCDの歌詞カードを開いたら、歌詞が天才すぎて、泣けたのと同時に、ちょっとだけ刺激受けた。ああ、文章力を、磨けたなら。