子供の責任と大人の責任

早くに寝たら、早くに目が覚めました。すばらしい。健康的な生活は、悪くないです。

 

健康的な生活、であって、本当に健康かどうかはわからない。健康診断、受けてないからなー。お知らせ来てるけど、ちゃんと予約して、行かなくては。

 

防げる病気は防いだらよい。防げない病気は受け入れるけど。

 

人間、いつ死ぬか分からない、とかそういうことばかり考えてしまう。いつ死ぬか分からないのも事実だし、そう簡単には死なない、というのも事実。これまで、死ぬかと思うようなことが何度もあったけど、死んでないしね。両親見てても、まだまだ二人とも元気だしね。

 

ずーっと昔、私がまだ子供だったころ、母親が「死んでほしいと思う相手はいても、殺したいとまでは思わないと思わない?」と言ったことがあった。なんか、殺人の罪とか、死刑についての話をしていたときだったかもしれない。確かになー。死んでほしいと殺したいの間には大きな違いがあるし、殺したいと殺す、の間にも大きな違いがあるし、殺すと思っているのと殺したの間にも大きな違いがあるのだよなー。

 

って、なんで朝からこんな物騒な話をしているのか。

 

死にそう、と思ったことはあるけれど、死にたい、と思ったことはない。死んでもまあいいか、とは思っているけれど、まだ今の段階では、死んだら子供が不幸だとわかっているので、死なない。こんな母親でも、いないよりいた方がいいのよ、それはもう、絶対に。

 

子供と大人の違いを、見くびってはいけない。それは、子供を見くびることではなくて。子供を大人と一緒にしてはいけない。子供の責任の大きさと、大人の責任の大きさは絶対的に違うのだ。

 

子供は、お尻に傷をつくったら、無邪気にぺろんとお尻を出して、「見えないんだけど、なんかできてる?」と聞けばよいのだ。そして、ばんそうこうを貼ってもらったらよいのだ。大人は、お尻に傷を作ったら、まずは苦労してでも合わせ鏡でもして、自分で傷を確かめなければいけないのだ。傷ができているのを見たら、自分でばんそうこうを貼らなければならないのだ。鏡で右左が逆転しているとしても、失敗しながらでもなんでも、自分でばんそうこうを貼らなければならないのだ。

 

お尻をぺろんと出して、ばんそうこうを貼ってくれるような相手がいる大人は、幸せだ。その相手に対してだけは、子供でいられる瞬間があるから、幸せだ。

 

そんな相手を見つけることも自己責任なのだ。大人になってしまうと。

 

大人なんてめんどくさいよ。圧倒的に自由があるけれど、その分の責任を引き受けなければならない。

 

と、オバフォーのおばちゃんが嘆いております。今日も1日がんばりましょう。