続いていく人生

ここ半年くらい、映画を観て、その映画が終わるたびに、映画は2時間で終わるからいいなー、私の人生は終わらなくてしんどいなー、と思っていた。なんてネガティブな。

 

映画は人生の一部を切り取ったものだと思うけれど、切り取れるのがうらやましくて。ハッピーエンドにしろ、絶望的なFin.にしろ、破壊的な「完」にしろ、とにかく物語はそこで終わる。

 

しかし、観ている私の人生は終わらない。2時間の何万倍(?)もの人生が、まだ続いていく。それが、なんていうか、とても、しんどくて、つらかった。

 

なんだけど、昨日久しぶりに人と会って、人の話を聞くのって、終わらない映画を観ているみたいなものなのかな、と思った。

 

誰かの人生は、当たり前だけれど自分の人生ではなくて、他人の人生、そして他人の物語ではあるけれど、それが続いている。2時間の何千倍もの時間、それが続いている。それを、断片的に聞くのは、終わらない映画を観ているようだ、と。

 

そして、その映画を観て解釈しているのが私。

 

同様に、相手も私の人生を、映画のように観ているのだと思ったら、相手から見た私の映画というのは、まだ始まってまもないくらいで、この先に何が待ち受けているのか分からない状態なのだろうな、と。

 

昨日の場合で言えば、私がKさんの話を聞いて映画だとして考えると、Kさんは私よりも20歳ほど年上の男性で、社会的な地位も安定している方なので、物語はそろそろ終盤。クライマックスへと向かいつつある感がある。そして、きっとこの物語はハッピーエンドで終わるのだろう、という予測も立つ。

 

私はここで、この先もう映画を観ない、ということもできてしまう。ああ、やっぱり他人の人生は映画だ。もう、ここまで来たらハッピーエンドで大団円なんでしょ、みたいに、観るのをやめてしまうこともできる。

 

だけど、KさんにはKさんの物語が続く。

 

そして、私だ。

 

きっと、Kさんから見た私の人生という映画は、今、まだ始まったばかりなのだけど、なんだかつまらなさそうな映画だ、という感想をいだいているのではないかと思う。この先、どこで盛り上がるんかいな、と。ここまでどっかに伏線があったんかいな、と。

 

わくわくできる要素を演出できなかったもんなー。素直すぎて。ごくごくふつーの、地味~な人生を語っただけで。

 

だけど、それが私の人生という映画なのだから、仕方ない。エンドロールはまだまだ来ない。この先、私はカメラを回し続けなければいけない。盛り上がりが来るのかどうかも分からない。自分で盛り上げる仕掛けを作って大コケするかもしれない。

 

そう。人生は続く、これしかない。続いていくのだー、人生は。