たまには料理を食べさせたい

食の神の怒りに触れて、「お前はもうこの生涯で金輪際、料理をしてはならぬ!」と言い渡されたい、それくらい料理が嫌いだ、と、昨日の朝にスープを作りながら思っていたのだけれど、昼間に中2息子と話していたら、明日(今日)の部活で弁当が必要らしく、しかも父親は旅行で不在とのこと。「私が作ってもいいならお弁当作ろうか?」と聞いてみたら、「ヨロシク」とのことだったので、夜のうちにるんるんと買い物して、今朝早起きして、いそいそと弁当を作った。

 

手早くぱぱっと、はできないけれど(料理、苦手だから)、見た目とバランスと味は申し分ない弁当ができた。と思う(当社比)。やればできるのだ。というか、ある程度のクオリティがあるものを作らないと自分がイライラしてしまって、それにかける時間がけっこうかさんでくるので、どんどんつらくなってしまうのだ。

 

もっと何でもいいかげんにできたら、いろんなことを器用にやるのだろうけれど。

 

たまーに、本当にたまに、少々の手をかけて弁当を作るくらいが、私にはちょうどいい。

 

生活をまわしていく上でやらなきゃいけないことはたくさんあるけれど、それをどのくらいの頻度で、どのくらいの継続時間で、どのくらいの集中度合いでできるか、というのは、人によって全く違う。

 

自分にできることがほかの誰かにもできるとは限らないし、そのときにラクラクできたことが翌日もラクラクできるとは限らない。

 

人には得手不得手があるのだし、時間によって人は変わるのだし。

 

 

さっき、息子が弁当を取りにきて、出かけていった。弁当を見せて私が「けっこう美味しそうだと思わない⁉」と言うと、「まあまあ」と。まあまあ、ね。彼にとっては最大限の賛辞だわね、ありがとう。

 

大好きな人に、料理をふるまうことのできる嬉しさ。自分の作ったものを、疑いもせずに食べてくれるありがたさ。たしかな喜びが、そこにはある。

 

ああどうか、私の作ったお弁当で、息子がお腹を壊したりしませんように…部活の試合で、みっともない姿をさらしたり、苦しい思いをしたり、しませんように…。

 

愛することは、リスクだ。傷つけることと紙一重だ。

 

それでも行動に表したいのだから、仕方ない。傷ついていないか、私がいることでつらい思いをしていないか、観察しながら、愛情を表すしかない。

 

さてとー。

 

「えー、本当に来んの?」と怪訝な顔をされたけど、一応、応援も行っていいらしいので、しばらくしたら出かける。さっきパソコンのキーボードに手を置いてみたとき、手首から先が黒くなったなー、と思った。これから、日に焼ける季節だ。