空気のような存在

東京はひどい雨。地下鉄のホームと車内が人がぎっしり。ぎゅーぎゅー詰めの電車に乗るのもつらいし、降りるために動こうとするだけでそれが誰かへの暴力になりかねない状況だし、ほんと、つらい。

 

乗り換えてまたぎゅーぎゅー詰めがイヤだと思って、一駅歩いたら、靴から靴下からズボンの裾から、びしょびしょになって、不快なこと極まりない。

 

雨、きらいだ。雨だったらみんな家にいたらいいのに。なんで、学校も会社も、雨でも行かなきゃいけないんだ。生物的には間違っていると思うぞ。

 

人は、人間である前に動物である、はずなんだけど、このところの社会の生きづらさは、動物である前に人間であることが求められるからこそのつらさなのではないかなー。

 

動物は、誰か別の個体から「認めてもらう」とか「評価してもらう」とか求めないけど、今、見聞きできる範囲の人たちの生きづらさは、認めてもらえなかったり評価を受けられなかったりで、だからそこで、がんばりすぎちゃったり、自分を責めちゃったりといったところが、つらいんじゃないか、と思う。

 

生きているだけでいい、って、赤ん坊が生まれたときに思ったのが、もしかしたらものすごく生物的な感覚であって、本当は、お互いに生きていてくれたらいいって思えるような集団の中だけで暮らしていけたら幸せなのかも。

 

私は、子どもたち3人と、今のところはそんな関係を築いていると思う。私は、子どもたちがどんなに成績悪くても、どんなに体が小さくても、生きていてくれたらそれでいい。もちろん彼らの幸せを願うけれども、それは私の思い描く幸せではなくて、彼らがこうしたい、こうなりたい、と思う幸せに近づければ、それでいい。

 

子どもたちも、私のことをそう思っていてくれてるのではないか、と思う。いないよりは、いるほうがまし。って、本当に何もやっていない母親なのだけど、いないよりはまし、という存在を目指していて、それが功を奏しているのかどうか、彼らはしょっちゅう私のところに遊びにくる。

 

長く暮らした夫婦が「空気のような存在になる」という表現をよく使うけれど、今、中2の長男と一緒にいると、そんな感じ。私は彼にどうこうしろ、と思わないし、彼も私に何かを求めない。ただ、一緒の空間にいて、好きなことをして、たまにその感情をシェアしたり、しなかったり。

 

だけど、私が「ねえねえ、めっちゃくだらない話していい?」と言うと、「あんたほんとにうざいから、ちょっと黙ってて」と言われてしまう。そうね、空気はしゃべらないものね。黙ってるわ。はい。

 

雨だけど、今日も1日がんばりましょー。