理由を詮索するのは人間だけ

ここ数日、ネガティブなトーンの投稿が続いているのはなんでなんでしょうね。過去の行動に「なんで」と理由を問うのは意味がないと思っているのですが、それでも「なんで」と考えたくなってしまう。人間の不幸のすべては、この「なんで」を考えるところから来ていると思います。

 

世の中、理由のないことなんてたくさんあるのです。私の娘は左利きですが、親戚一同さかのぼってみても、左利きらしき人物はおりません。義妹の従兄弟とかにもしかしたらいるかもしれませんが、いたとしたって私の娘とは血がつながっていないのだから、なんの理由にもならない。ただただ、娘は左利きだというだけです。

 

そこで人は疑い始めるわけです。もしかしたら、父親が違うのではないかと。

 

あのですね。娘の左利きの理由を探して納得することと、家族で仲良く暮らすことの、どちらが大切ですか? 左利きの娘が生まれてきて、家族が幸せなら、それでいいではありませんか。「なんで」を探し始めるから、不幸が生まれるのです。

 

「なんで」はすべて過去のことを詮索する行為です。過去を詮索しない動物は幸せです。何かが起こったときに原因を追究して、誰かを批難したり訴えたりしても、現実は変わらないでしょう。

 

上で書いたことは完全な例えであって、私が不貞行為を疑われたという意味ではありません。念のため。娘の顔は夫や義父、義妹(この3人がめちゃめちゃ似ている)にそっくりで、親子であることは全くもって疑う余地がないからです。たまたま左利きなのです。なぜか。

 

あ、また「なぜか」と書いてしまった。「なぜか」禁止。

 

うーん、やっぱりちょっとネガティブなトーンになってしまいましたね。なんででしょうね。あ、おいこら。