なんかまたどす黒いものが出てきた

遠い外国の地で私のことを思い出してくれた男の人がいると知って、身もだえする朝。

 

私は、判断に迷ったり不安で悩んだりしたとき、自分がまずは動物だというところに立ち返るのだけど、そもそも動物って感情を持つのかしらん? もちろん飼い犬や飼い猫や、動物園の動物なんかを思い描いてみても(あ、うちには犬も猫もいませんよ)、うれしいことを表現したり、怒っているということを示したりはするから、それを感情と言えば感情を持っているのだろうな。

 

でも、過去のことを悔やんだり、未来のことを不安に思ったり、今目の前にないことで感情がかき乱されることはないのではないか。あと、あの人を喜ばせよう、とか、この人を痛い目に遭わせたい、とか、自分じゃないものの感情にかき乱されることはないのではないか。

 

小さいころ、「自分だけよければいいわけじゃないよ」と教えられ、他人の気持ちを思いやることが大事だという価値観を植え付けられたけど、そしてそれはもちろん間違ってはいないけれど、子供心に、「みんながみんな、自分がいい、っていうのをやっていったら、みんなよくなるのに」と思っていた。現実には、それができない人と、平気でやってのける人がいるから、できない人々が常につらい思いをしてしまうのだけど。

 

今のところ家族でいちばんわがままな(…と書きながら、それは自分ではないか、と思いつつ)、小2の次男のことを考えると、そもそも彼がわがままになるのは、「お姉ちゃんが遊んでくれない!」という、最初から他人がらみのわがままなので、「お姉ちゃんに遊んでほしい」という彼の自我と、「弟とは遊びたくない」という娘の自我が対立して不幸なのだ。そもそも、別の人の利害がからまないわがままを、人はわがままと思わないよな。好き勝手ができるならすればいい話で、それによって自分が何らかの不幸な思いをするから、その行為を「わがままだ」と認識するわけで。

 

人の気持ちを思いやる、ということでいつも思い出すのは、結婚3年目くらいのときの夫の言葉だ。私が疲れはてていたので、夫に子供たちを連れて遊びにいってほしいと頼み、くたくたになりながら家事を済ませ、やっと家のなかが片付いて、夕方に食事の用意をして待っていたのだけど、いつまでも帰ってこないのだ。

 

心配だし、寂しいし、ごはんは冷めるし、泣きたいような気持ちで待っていたら、やっと帰ってきた夫が、ドアを開けるなり、「ゴミぐらい捨てておけよ」と。ビニル袋にまとめたゴミを、夫が玄関の外に置いておいて、私は家のなかのことばかりしていたので、玄関の外にあるゴミのことなんてすっかり忘れていたのだ。

 

そのときに私が、「帰ってきていきなりそれ? 私がどんな気持ちで待ってたと思うの?」と言ったら、そのとき夫は、「私、私って、また“私の気持ち”か。なんで俺がキミの気持ちを考えなきゃいけないんだ」って怒鳴ったのです。

 

それから苦節8年? 私の気持ちなんて考える必要のない状況になって、よかったね、夫よ。