ちゃんと書くのって難しいわあ

瑛太さんが好きで新垣結衣ちゃんカワイイと思ってて息子が卓球やってるので、『ミックス。』はちょっと気になる映画でした。

 

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しかし、この記事を読んで私が面白かったのは、映画や役者さんや興行成績についてよりも、

 

ただ極論を言えば――これは日本の映画興行において動かしがたい事実ですが――多くの観客は「観る前から展開や結末の想像がつく映画」を好みます。なぜなら彼らは、「観た後に自分が浸りたい種類の感情」をその作品がもたらしてくれることを信じて、1800円という安くもない鑑賞料金を前払いしなければならないからです。

 

観客の身になってみれば、観た後にどういう感情に浸れるかがわからないような大穴馬券に大金を張るのは、得策ではありません。配当金がわずかであっても、「損しない馬券」に張るのが、お金を無駄にしない頭のいいやり方です。その意味で、観客は1800円を文字通り「賭け」ているのです。

 

という部分。なるほどー。人は、「損をしない」ことにお金を支払うのか。

 

で、思ったんですけど、ここ2か月ほどブログを書いたり読んだりしていて考えたことでもあるんですが、ブログって書き手の「キャラ」が決まってると、安心して読めますよね。何が書いてあるか、とか、役に立つことが書いてあるか、とか、面白いことが書いてあるか、とか、そんなことよりも、「いつも通りのことが書いてある」と安心しませんか。

 

ふざけたブログはいつもふざけた投稿。トーン控えめなブログはいつも控えめな投稿。この人頭いいなーって思わせるブログはいつも頭いいなーって思わせる投稿。

 

そんな風にキャラが定まったブログは、安心して「今日も読もう」って思える気がします。

 

で、私、これ、書きながらずっと迷ってるんです。何を書いたらいいのか、というよりも、どういうキャラで書くべきなのか。

 

迷っている、というのとは違うかもしれない。自覚してます。キャラもトーンも内容も、全くもって定まっていないというのは。

 

しかーし、現時点での私には、まだそんなこと気になりません。迷って考えて手が止まって書けなくなる、という人もいるかもですけど、私の場合は、それでもなお、書き続ける。とにかく書く。書くことが目的。ただひたすら書くために書く。ただ、ただ、書くのが楽しい。

 

何も定まっていないのは当たりまえ。だって、何も定めてないもん。思いの向くままに書いてるもん。

 

ふざけたことを書きたい日もあれば、真面目なことも書きたい日もある。弱音を吐きたいときもあれば、なんだか書いてるうちにちょーポジティブになる日もある。大好きな両親のことを書こう、と決意した次の日に、自分がいかに子供を愛しているかを書く。あれだけは書かないでおこう、と思ったことを書いてしまうこともあるし、あれを書きたくてブログを始めたはずでは?ってことも、まだ書いてなかったりする。

 

何も飾らず、作らず、素のままをさらけ出したありのままの姿というものは、きっと、他人には見苦しい、見にくいもの、つまり醜く、目をそむけたくなるものかもしれない。

 

逆に、好きなアイドルにはいつも可愛くいてほしい、とか、憧れの先輩にはいつもカッコよくいてほしいとか、頼れる上司はいつも頼もしくいてほしいとか、母親はいつでも甘えさせてくれるとか、子供はいつまでも自分の言うことを聞くとか、他のだれかが自分の中で作り上げたイメージのままであり続けるのって、安心するかもしれない。

 

でも、人間って、そんなに分かりやすいものじゃないですよね。気分も変われば成長もする。体調によって態度が変わったり、立場が違えば言うことも変わる。

 

ブログを書いているときにふざけたくなるのも私。真面目なことを考えるのも私。弱気になるもの私。めっちゃ強気なのも私。

 

全部、私。ありのままの私。

 

私の全部を、愛してよーーーーー!!!

 

 

なんて、無茶なことを言うような女なので、結婚生活が破綻したんだと思います。「結婚生活では片目をつぶれ」とか言いますしね。夫は目をそむけたくなったんでしょ。望むところだわ。

 

と、また支離滅裂な姿をさらして、せっかく読みにきてくださった方々にご不快な思いをさせているとしたら、たいへん申し訳ありません。

 

おやすみなさい。両目をつぶって眠ってしまいましょう。