理由を尋ねるのってホント意味ないよ

今日も今日とてせっせと書く。

 

さっき、『ムーンライト』を返しにいって、ついでに家にあった本をブックオフに売りにいって(23点で2045円になった)(そのうち、数週間前に200円で買った本が5円で買い取られてた)(その2冊はつまり195円で2週間借りたって感じだな)(まあ妥当)(さすがブックオフ)、道路を歩いていたら、世の中小さい子供を連れて歩いている人、多いのねー。自分が過ぎた道だから気になるのか、自分が失った過去だから気になるのか、とにかく、お父さん、お母さん、お疲れさまです!という気分。

 

あるお母さんが、3歳くらいの女の子に「なんでこの前はできたのに今日はできないんですか⁉」と、詰問口調で聞いていた。「~ですか」っていうのは、丁寧に言ってるんじゃなくて、ブルゾンちえみみたいな、嫌味な敬体ね。

 

小さな女の子は、「だって、だって…」と、ぐずぐず。

 

最近の私は、人間の行動に「どうして」を尋ねるのはものすごく無意味なことだと思っている。特に過去のことは、理由が分かったところで、何の解決にもならない。

 

試験が終わってから「どうしてもっと勉強しなかったのか」と問われても、合格点に足りないという現実は変えられない。

 

料理の味付けに失敗してから「どうしてこんなに塩を入れてしまったのか」と問われても、しょっぱすぎる料理の味は変わらない。

 

スピード違反で捕まってから「どうしてあんなにスピードを出していたのか」と問われても、罪を見逃してもらえるわけではない。

 

人が、他人の行動に対して「どうして」って尋ねるのは自分が納得するためで、それ以外に効能はないんじゃないか。

 

逆に、理由が分かったところで、問題の解決につながらない事例はいくらでもある。

 

以前にうちの会社で働いていたパートの女性は、とにかく遅刻が多かった。その都度、その都度、理由はきちんとしていて、それで責めたり叱ったりということはしなかったけれど、あまりに回数がかさんで、社内で信頼感を失っていった。

 

遅刻の理由は、電車が遅延した。忘れ物を取りに帰った。家族が急病になった。自分が体調を崩した。病院に行ったら混んでいた。などなど、などなど。

 

勤め始めて数か月でその状態だったため、本人や家族の体調のために私がしてあげられることはないし、「理由を疑っているわけではないけれど、とにかく私は安心して働きたいのだから、信頼感を回復するためには、この先、遅刻しないようにするしかないのではないか」と話したら、「はい、すみません」とうなだれていたものの、翌週にまたすぐ遅刻を繰り返したため、残念だけど、辞めてもらった。

 

理由があればいいってもんじゃないのだ。

 

女の子を叱っていたお母さんに戻って、もちろんこのお母さんも、子供が理路整然と、「先日はこうこうこういう状態でたまたま自分の行動が功を奏しましたが、本日はこうこうこういう点が異なっている事情があり、こうこうこのように私としては同じ行動を試みましたが、こうこうこういう理由により失敗に至りました」とか説明されることを望んでいたわけではないだろう。

 

可愛そうに。

 

お母さんも、子供も。つらいだろうね。

 

自分の行動だって、思うようにできないのだから、ましてや責任もって他人の行動を律しなきゃいけないなんて。

 

うん。

 

ブックオフに出かけるついでにカフェで勉強しようと思っていたのに、こんなブログを書くことで時間をつぶしてしまったよ。な、ぜ、な、ら、ブログを書くのは楽しいから、なのだ! 私ってばもー、ダメ人間なんだからあ。