寝過ごした月曜日の朝です

なぜかずいぶん寝坊してしまった。

 

なぜか。

してしまったことに理由を考えるのは意味のないことだと思っている。理由なんて後付けでどうにでもなる。目覚ましが鳴っても起きなかった。それだけのこと。

 

前の会社の後輩から電話がかかってきた。彼も四十路のおっさんだけど、感覚としては「前の会社の男の子」だ。彼も私もスポーツが好きで、一緒に走ったりバスケやったりして、たぶん一回だけ二人で飲みにいったりもして、私の送別会で、彼は目を真っ赤に腫らして泣いていた。

 

会社を辞めてからはほとんど連絡も取ってなかったし、会うこともなかったのだけど、3年ぶりくらいの電話だった。案の定、酔っ払っての電話。「今度、飲みに誘ってもいいですか」と言うので、「いいよ」と言ったけれど。

 

雨宮まみさんの『女子をこじらせて』を読んだ。全くもって今さらだけど。第2章までの学生時代、駆け出し時代は、正直、彼女の内面があまりに私と違って、考え方が逆だとここまで苦しいものなのか、という思いで読んだ。第3章の、仕事をする上での女性性の扱いづらさは、非常に共感できるものだった。第3章で、やっと面白くなったというか、世の中の女子たちが、これだけ「こじらせ女子」と自称するわけがわかった。2章まで読んだ時点では、「自分で“私、こじらせてるんです”って言うのは“私、性欲を持て余しているんです”って言うようなものなのに、よくみんな言えるなあ」と思っていたよ。

 

こうして、書いていて思ったけれど、女性は、というか、もしかしたら人間はみんなそうなのかもしれないけれど、仕事で認められるようになるまで、身体的にエロの部分で認められることが人間形成に必要なのかも。

 

いや、違うな。すごいおこがましいまとめ方になってしまうけれど、こういう思考の仕方こそが、私が「女子をこじらせ」ずに生きてこられた結果だから、仕方ない。

 

と、書きかけて、ちょっと考えた仮説(「優秀な子ども時代」→「モテる青春時代」→「献身的な妻&母時代」→「仕事のできる女性時代」→「可愛い老婆時代」と過ごすのが女性の理想、っていうか、これ、ただの私の理想だわ(笑))、も、うまくまとめられそうにないな、と。

 

評価や承認の基準と主体が多すぎるんだよね。

 

・親

・友人

・恋人

・職場の人

・世間の目

・ネット住民

・自分

からの評価を、

 

・顔

・身体

・着ているもの

・仕事

・付き合う相手

・稼ぎ

というそれぞれにおいて行うものだから、まー、大変なのは当然。

 

でも、雨宮さん、40歳で亡くなってしまっているのよね。生き延びられなかったのかな。

 

思いを言葉にするのは大変なことだ。私も書きたいこと、全然うまく書けないよ。