映画『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』

映画『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』を観ました。

 

ブラッド・ピットケイト・ブランシェット

 

映画を観ると、最初に「この俳優さんすごいわー」って思う。

というか、それしか感想が出てこない。

 

この映画も、ブラッド・ピットすごい、って思った。

すごい、さらに、青年のブラッド・ピットは、まー本当にカッコいいね。完璧、とはこのことを言うのか。

 

いやしかし、ブラッド・ピット以上にすごいのは特殊メイクとCGでしょうか。画面から受ける感じは控えめ、抑えめで、派手な印象はまるでない映画だけれども、どんだけお金かけてんだ、って思いましたよ。ブラッド・ピットだから回収できた製作費、なのではないかと。

 

映画のすばらしさは、作り事を作り事じゃないように、まるで本物のように見せることだけれども、それはこういう物語のように、技術の向上とともにできるようになるわけで、それを、古代の昔からやってのけてきた小説は、まったく違う意味ですごい、と思う。

私が自分の発信方法として、テキスト(文字)にこだわるのも、そこかな。技術や機材や環境、何もかもがなくなったときに、頼れるものは言葉だから。

 

あー、奇しくも。

 

さっき、このブログのタイトルを「誰か私と一緒に老いてくれないか」としたんだけれども、この『ベンジャミン・バトン』は、引かれ合った二人が「一緒に老いる」ことができない物語。

 

ということを考えたのは、私には今、生きる上でのパートナーがいなくて(社会的には夫という立場の男性がまだいるんだけれども)、年齢的には恋に浮かれるような若さでもないのだけれど、だからといって、この先ずっと一人で老いていくつもりは全くない。

 

男性が女性に引かれるとき、容姿に引かれたり(顔やスタイル)、能力に引かれたり(料理や看病)、共通点に引かれたり(趣味や仕事)、経済力に引かれたり(逆玉)、生殖能力に引かれたり(子孫繁栄)、いろいろあると思うけど、私は私の思考に引かれる人と、まずは一緒になりたいのです。

 

言葉は思考を表すものだからね。だから言葉を表すよ。

 

あー、楽しい。誰のことも気にせず、言いたい放題。