キューバサンドにまつわる気持ち

先週、日曜日のランチにきのこサラダを作り、そして今日はキューバサンドを作った。正しくは、キューバサンドもどき。朝、切って開いたバゲットに、ガーリックトーストのもとみたいなチューブ入りのマーガリンとマスタードをぬって、とけるチーズとロースハムとピクルスとさけるモッツァレラチーズをはさんで、ぎゅっとラップで包んで冷蔵庫に入れておき、お昼にフライパンでバターを熱して、フライ返しでぎゅーぎゅー押し付けながら焼いた。ぎゅーぎゅー押しすぎて、フライ返しが曲がってしまった。バカ…。

 

バゲットの半分、ロースハム3枚、ピクルス3本、というボリューミーなサンドイッチだったのだけど、最初のひとくちを食べてみたら思いのほかうまくできていた。たまたま子どもたちが遊びにきていたので、「ひとくち食べてみる?」とかじらせたら、「うまい! 何これめっちゃうまい! マックみたい!!(←最大の賛辞)」と感激していたので、私が食べるのはあきらめて、ほとんど子どもたちに食べさせてしまった。1週間に一度、好きなものを作って好きなだけ食べる、という夢が子どもたちに食べられてしまったけれどまあ良い。子どもにおいしいものを食べさせることができるというのは幸せなことだ。と思おう。

 

しかし、子どもの幸せこそが母親の幸せだ、と、私は手放しで思っているわけではない。今日だって、本当のことを言えば、せっかくうまくできあがったキューバサンド、フライ返しを曲げてまで作り上げたキューバサンド、まるまる食べたかったよ。あああ、食べたかったぞ!!!

 

しかし、そんなことを言えば、うちの子どもたちは超いい子なので、「え、ママごめん。ママ食べたかった?」と自分たちを責めるに違いない。そんなことをさせてはならん。

 

人の気持ちは、100%か0%かではなくて、ちょっと我慢して80%くらいの気持ちで行動に表すとか、かなり頑張っても30%の気持ちにしかならないから謝りつつ引き下がるとか、いくら考えても50%から気持ちが動かず、だれに何を言ったらいいか分からないうちに人から誤解されてしまうとか、そういういろいろな要素がまじりあって、時間が過ぎていくものだと思う。

 

いいんですよ、キューバサンド、おいしく作ることができるっていうのは分かったのだから、来週にまた作ればいいだけの話。

 

あと、何が食べたいかなあ。栗ご飯も挑戦してみようかなあ。最近、なぜかトリのから揚げが好きになったので、たっぷりのみぞれ下ろしで食べるっていうのもいいなあ。

 

食欲の秋、だけど、ダイエットは継続中!

いろいろ自分にぴったり来ている感じ

ちょっと大げさに言うと「1日一食のみ」を決心したダイエット、本当のところで言うと「夕飯はバナナと豆乳だけにする」と決心したダイエットなんだけど実はおにぎり一個とかサンドイッチ一個とかのときもあるしいろいろおやつも食べちゃっててほとんど実態はなし崩しになってしまっているダイエット、続いてます。こういう状態を続いていると言えるのかどうか、わかりませんが。いちおう私の中では続いていることになっているのです。

 

しかし、「基本的に夕食は食べない」という原則が、例外が多すぎるにしても(言い訳も多すぎる)私のなかではかなりぴったり来ている感じというか、しっくり来ている感じというか、いろいろポジティブに働いています。

 

まず、お昼ご飯を自由にたっぷり食べられるようになった。揚げ物の定食でも、ごはんの大盛りでも、罪悪感を感じることなく、おいしく完食できる。今日の食事はこれだけ、と思うと、しっかり味わって、お腹いっぱいまで食べて、満足。

 

そして、夕食のためにお金を節約する必要がなくなった。ランチは職場の人と食べるのであまりケチケチしなきゃという気持ちは働かないのだけど、夕食はどうせ一人で食べるのにこれじゃあお金を使いすぎかな、とか、できる限りお金を使わないようにちゃんと栄養を取るにはどうしたらいいかな、とか、まあわりと雑念が多かった。けど、バナナと豆乳、と決めたことで、安くて栄養のあるものを探す必要がなくなって、これはかなり精神的にラク

 

それから、重複するようだけど、どれだけ栄養を取らなきゃいけないのかと悩む必要がなくなった。お昼ご飯をしっかり食べれば、栄養失調に陥ることはないだろう、と思う。むしろ、パンだけで済ませるとか、ついついお菓子を食べてしまうほうが、カロリーだけ高いという事態になりそう。日本のランチは栄養的にも充実していると思う。1000円前後を使っているという前提だけど、白米、おかず、小鉢、お味噌汁、とそれなりに食材を摂取できる。

 

そして、週に1回だけ自分で作る日曜日のランチで、ちゃんと料理をするようになった。これまではお昼も夜も適当に作る、という感じだたったけれど、お昼に1回だけきちんと食べると思ったら、1回だけならきちんと作れるようになった。私にとって、昼も夜も作るというのは負担が大きいのだ。

 

今日は、きのこソテーのサラダを食べた。前にコンビニの出来合いのサラダで気に入ったきのこサラダがあったのだけど(今もあるのかも)わりと高いしゴミがかさばるのでしょっちゅう買うのはためらっていた。今日は、自分でレタスときのこ3種類とベーコンを買って、ベーコンときのこを冷蔵庫に入っていた使いかけのパスタオイルで炒めて、ちぎったレタスにかけて山盛り食べた。美味しかった。

 

いろいろ、自分の人生を変えて、選んでいけるのがいい。自由なのが楽しい。これでちゃんとダイエット成功したら、言うことなし。がんばろ。

目のまわりの話

ちょっと心がざわざわするので、ココアを飲んで、自分の言葉を書きとめてから、仕事をしよう。

 

視力が落ちてきたな、と思う。スマホを見るのがつらい。文字を読むのがしんどい。眼科へ行って、メガネを作るべきか。

 

コンタクトを入れていた時期もあったし、メガネをかけていた時期もあったけど、いろいろめんどくさくて、レーシックを受けてからは、ものすごく快適に日々を過ごしていた。それが普通になってしまってはや10年? これほど長い年月を、目にかんする不自由をなにひとつ感じないで生きてきてしまったものだから、ほんの少し視力が落ちただけでつらい。

 

視力が落ちた、という言い方が正しいのかどうか、分からない。単に目が疲れているだけかもしれない。遠くが見づらくなったのか、近くが見づらくなったのかも、よく分からない。そもそも、私は自分の体のことがよく分からない。おなかが痛いような気がして病院へ行って、「いつから痛いですか」「どんな風に痛いですか」「どれくらいの痛みですか」と聞かれて、痛みに意識を向けると、本当に痛いのか、自分が勝手に痛いと思い込んでいたのか、今でも痛いのか、さっきまで痛かったけど今は痛くないだけなのか、よく分からなくなってしまう。

 

コンタクトを入れていたとき、ドライアイがひどくてワンデーしか使えなかったので、しょっちゅう眼科に行かなくてはいけなかった。そのたびに視力検査をしていた気がするけれど、見えるか見えないかは明確に判断できるにしても、丸ぶちの検査用のメガネをかけて、レンズをとっかえひっかえして、「さっきと今とどちらが見やすいですか」と聞かれても、いつも、うーん、どっちが見やすいか、分からん、と思っていた。さっきの方が見やすかった気もするし、今の方が見やすいような気もする。じっと見ていたら、なんだか疲れてきて、どんどん見づらくなってきている気もする。という感じで、ホントのことを言わなきゃ、正確に答えなきゃと、思えば思うほど、うまく答えられなくなる気がしていた。

 

そして、今、PCの画面を見ていて、目がつらい。これは、疲れているんだろうか。目薬をさしたらつらさが軽減するだろうか。疲れないような目の体力をつけるためにはどうしたらいいんだ。目の体力ってなんだ、目ヂカラか。

 

そういえば、ドンキホーテで買ったペンキみたいな黄色のアイシャドウは、中味はたっぷり残っていたけれど、ケースが割れた。以前の私だったら、中味がもったいなくて捨てられなかったけど、アイシャドウの粉よりも、毎日それを使う自分の心地よさが大事と気づいた今の私は、ごめんね、ありがと、と言いながら、ケースと本体が二つになってしまったアイシャドウをゴミ箱に捨てた。

 

さ、仕事しよ。

どす黒い言葉が出てきた

他人の気持ちは理解できないものだけれど、なんとかして理解したいと思ってしまう心理はいかんともしがたい。完全な理解はできないけれど、解釈をしないことには、相手との距離感も関係も進展させることもできなければ収束させることもできないので、なんとかして理解、あるいは解釈をしなければ始まらない。

 

私はわりと、人の気持ちを読むことが得意なんだと思うけれど、その一方で、「本当はどう思ってるのか」というのを気にしないことも得意である。たとえば、会うたびに私のことをにらみつけてくる人とか、私が何かするたびに舌打ちする人がいたとして、その人はたぶん私のことを嫌っているとは思うけれど、たとえば仕事関係の人だとして、その人に私が「すみません、これどうしたらいいですかね?」ってにこやかに相談したときに、「〇〇しておいて」って言われたら、素直に〇〇するだけである。それが仕事上、筋が通ったことだとしたら。

 

「〇〇しておいて」という指示の裏に、「本当は私のことが嫌いだけど仕方がないから指示をしただけだろう」とか、「私に指示しておきながら本当は私のことを無能だと思ってるんだろう」とか、「言ってみたところでできるかどうか試しているんだろう」とか、そういう、余計なことは考えない。私のことを、面と向かって「僕はきみのことが嫌いだから」とか、「僕はきみのことを無能だと思ってるから」とでも言われない限り、「本当は私のことどう思ってるんだろう」とか、考えない。考えたって、仕方ないから。

 

逆に、私のことを信頼しているからこそ言っている冗談なんだろうな、ということがなんとなくわかっても、「きみだったらミスしそうだよね」とか、「またきみのところで仕事が止まってたの?」とか言われたら、ああ私は無能ですよね、すみませんね、この仕事やめますね、って辞める。実際、辞めたし。慌てて引きとめられたけど、知るか、もう遅いわ、って思った。

 

いや、今の話じゃないです、ずっと昔の話。

 

何が言いたいかって、私は言葉にできない気持ちもあることも知ってるけれど、言葉にできたほうが強いし、言葉には力があると思っているので、本当に私のことが嫌いだったら、面と向かって「おまえなんか嫌いだ」って言ってみろ、と思うという、そういう話です。言えないってことは、言ってはいけないことを考えてるってことでしょ、と。それはつまり、面と向かって「おまえなんか嫌いだ」って言ってしまったら、それはもう取り返しがつかなくて、言ってしまった方が負け、みたいなケースが多いんじゃないかと思うので。

 

なんだかよく分からないけれど、なんだかどす黒い言葉が出てきちゃいましたね。とほほ。

 

関係ないトラブルが解決しない

お久しぶりです。もう、半月くらいここの投稿をしていないかと思ったけど、まだ1週間くらいだった。

 

悩むことなく、淡々と、日々を生きています。完全に平和というわけではない。直接に自分には関係のないのだけれど、週に何日か顔を合わせて一緒に過ごす立場の女性(年上)が悩みをかかえていて、その進展と彼女の心境を逐一聞かせてもらっていて、それがなんというか…何人もの大人が寄ってたかって、ぜんぜんトラブルを解決できていない感じが、もどかしい。

 

私はこれまで、自分の愛情の押し売りをしすぎて、余計なお世話で人に迷惑をかけてきたという自覚があるので、この頃はできる限り自分に関係のないトラブルは「解決してやろう」とは思わないようにしている。

 

しかしその一方で、自分にできる限りのことをしないと怠慢だ、という意識が働き、「私にできることがあったら言ってください」と伝えてはあるものの、具体的に私が動くとますます事態がややこしくなりそうで、何もできずにいる。

 

何のことやらさっぱり分からないと思いますが、この問題を解き明かすには、たぶん本1冊ぶんくらいの分量が必要で、それぞれの登場人物にそれぞれ積み重ねてきた時間があり、心境の変化があり、その中でAさんはBさんに思ったままを伝えられるけれども、BさんはCさんに遠慮していて、さらにCさんはAさんの腹ばかりさぐっている、みたいな状況で、なにひとつ状況が変化しない。

 

状況が変化しない、ということを、私はことが解決しない、というふうにとらえてしまうけれども、Aさん、Bさん、Cさんがどんな思いで受け止めているのかは分からない。Aさんはいつまでたっても誰も自分を理解してくれないと思っているかもしれないし、Bさんはどいつもこいつも自分の言うことを聞かないと思っているかもしれないし、Cさんは状況を変えたくないからこそ自分の粘りが効いていると思っているかもしれない。

 

私は、AさんでもBさんでもCさんでもないので、ただただ、問題が解決しないなー、状況が何も変わらないなー、と思って、見ている。

 

見ているだけなら良いのだけれども、やや、自分がイライラしはじめているのも感じていて、この私のイライラを解消できるのは私だけなので、さてどうするかなー、というと、話を聞いても共感しない、という方向に話が行ってしまうので、それはそれで自分としては冷淡になりたくないので、困ったものなのである。

 

ま、余計なお世話なんですけどね。

 

おやすみなさい。

 

 

個人が貶められると私は怒る

私はどうも、「誰とも違う特別な私」「たった1人の際立つ個としての自分」というものにかなりの価値を見出しているようなんである。

 

5年前までは会社員をやっていて、それも超一流企業でもなければ、超零細企業でもなく、まあわりと普通と言っていいような会社で、まわりがみんな普通に平社員として働いている中で自分も平社員で、そういう状況がガマンできなくて、辞めてしまった。私は、「もっと私という個人を輝かせてくれる職場で働きたい」と思ったと書けば、ちょっとだけカッコがつくような気もするけれど、まあ、単純に「目立ちたかった」だけです。ほんとバカなんだけど、脱サラしたのはフェイスブックのネタが欲しかっただけなんちゃうんか、って思わないでもない。

 

でも、それを後悔しているわけではないです。あのまま、「私ってなんて普通なんだろう…」「こんな普通の私には価値がないんだ…」と、鬱々と40代を過ごしていたかもしれないと思うと、それこそ恐ろしいです。今は、立場的にあんまり普通じゃなくて、安定もしてなければ成功もしてないけど、「普通の自分には価値がない」と思って生きているよりは、300倍くらい楽しい。あくまでも自分の価値観ですけど。

 

と、自分を肯定するためにこんな話をしようと思ったのではなくて、実は、他人の言う言葉で「個」である存在の個人を無理やり立場や環境やコミュニティや何かの単位や組織にひもづける、あるいは押し入れる、閉じ込める、そんな発言に、ものすごくカチンと来るのです。

 

たとえば、「あの人の服装、おかしいって自分で気づいてないのかな。奥さんとか、出かけるときに恥ずかしいと思って着替えさせたりしないのかしら」という発言に、カチンとくる。

 

しばらーく、なんでそんなにカチンと来るのか、わかっていませんでした。が、たぶんこれは、その服装のおかしい人と、その人の奥さんを、「夫婦」という単位におしこめようとしている考え方に、違和感を感じているのです。

 

誰かがどんな服装をしようと自由であるのに、それを非難した上で、さらにその個人の家族という立場の人間まで恥ずかしく思うべきだという考え方。それに、私は怒りを抱く。

 

立場上、夫婦であっても、家族であっても、何を誇りに思うか、何を恥ずかしく思うかは、自由であるはず。ましてや他人から、「なんで恥ずかしいと思わないのか」と責められる<筋合いじゃない>と書きかけたけど、「筋合い」こそが、立場に人を閉じ込める言葉だ。

 

別に、何か私に強烈なイヤな体験があったとか、そういうわけではないのだけれど、ただ、最近そういう風に自己分析した、という話。です。

私は数で解決したい

美容院に行ってきた。「今、めっちゃ短い前髪が流行ってますよね」って言ったら、「やります? 似合うと思いますよ」って言われて、その気になった。が、「どうします?」って言われて、「ぶ、無難なままで…」とひよってしまい、まあ、普通の前髪にしてもらった。さっき、トイレに行ったら前髪のまわりに白髪がいっぱいで、まあ、こんな白髪だらけで可愛らしすぎる前髪にしなくてよかった、とちょっと思ったところ。

 

私はよく髪形を変えるのである。常に、今より良い髪形があるのではないか、変えてみたらもっと良くなるのではないか、と思って果敢にチャレンジしてしまうのである。それで後悔することもあるけれど、ずっと同じなのは飽きてしまうのだ。

 

同じ色の口紅を3本も買って、いいかげん飽きてきたのと、なんだか似合わなくなってきたような気がするのとで(ほんの数か月でそこまで老けたり雰囲気が変わったりしないと思うのだけど、たぶん、夏でめちゃめちゃ日焼けをしたのと、口紅そのものが夏っぽい色なのとで、なんだかそれがやたらと気になってしまっていた)、新しい口紅が欲しい、と書いていた問題は、ずっと持ち続けていた、古いわりと真っ赤な口紅をつけてみたら、かなりいい感じだったので、それに変えた。問題は、その口紅が1本しかないこと。私は、1つのものを持ち歩く、ということがものすごく苦手で、口紅も、バッグに入れておくのを1本、家の洗面所に入れておくのを1本、という風に固定したいのである。朝、家で化粧するときに、会社に持っていくかばんから口紅を取り出して、それをまた忘れないようにかばんに入れる、なんてことは、めんどくさくてとてもイヤ。世の中の女性の大多数がそれをやっているかもしれないけれど、私はイヤなんです。

 

不便をガマンするよりも、数で解決したい、というところが私には多々ある。家の中にはものすごい数のゴミ箱があって、それはなんでかというと、座る場所にひとつずつゴミ箱があるから。座った状態で、いつでもすぐ手の届くところにゴミ箱が欲しい。もちろん、座る場所にひとつずつボックスティッシュが置いてある。

 

ボックスティッシュの数ということでいったら、リビングダイニングに3つ、寝室に1つ、台所に1つ、洗面所(トイレではなくて鏡台の横)に1つ、という計6つのボックスティッシュが置いてある。ティッシュを取るために立ち上がる、とか、移動する、いうのがイヤなの。

 

同じように、家で使っている洗面道具を旅行の準備のために移動させるのが嫌い。旅行のための洗面道具は別に用意してある。1つのもので兼用するのは日焼け止めくらいだ。この、日焼け止めも、普段に使っているものをぎりぎりになって旅行用に準備するのがイヤで、この夏の旅行ではあらためて新しい日焼け止めを買った。

 

そんなわけで、つい先日、古い日焼け止めを使い終わって、やっと、洗面所に置いてある日焼け止めが2つから1つに整理できました。

 

10月になっても暑いですね。なんだか久しぶりにちょっとだけ長く書いちゃった。