物理的な肉体としての私

いろいろ、物理的な肉体としての私を知っている人に冗談を言ったり、愚痴ったり、毒づいたりしたいな、と思いつつ、もうFacebookでそういうことができなくなっているので、なんとなく、生きづらい。

 

少し前までFacebookは気心しれた友達ばかりで、なんというか、私が面白いと思って書いたことを面白いと思ってもらえるんじゃないか、と、そういう期待のできる場所だった。

 

今は、ちょっと知り合いや友人を増やし過ぎた。

 

こういう冗談を言いたい、と思っても、それを冗談と思ってくれない人がいるだろうな、とか、あーもう、これめっちゃ愚痴りたい、と思っても、まさに愚痴を発生させている本人がFacebookの友達になっているとかね。

 

生きづらいとまで書いたら言い過ぎだけど、まあ、Facebookが心からリラックスできる場ではなくなってきた、というのは事実なんですねー。

 

まあ別にいいんですけどね。Facebookが人生において普遍的に必要で重要なものかというと、全然そんなことないし、むしろ、以前の私がFacebookを神聖視しすぎていたというか、天真爛漫に使いすぎていたというか。過去の私と、今の私が違う、という、それだけのことです。

 

本当の私なんていうものはどこにもなくて、ただ、あるのはこの肉体と、その肉体が与える他人が受けた印象だけが、私という人間のすべてだと思う。

 

何をもってして、その人のことを理解できるかというと、その人の本質なんてものは永遠に絶対に理解できなくて、相手がとった行動と、それによってこちらが受けた印象、それがその人のすべてだと思う。

 

「誤解だ」と言われれば、「誤解させたのがあなただ」と思うし、「そういうつもりじゃなかった」と言われれば、「そういうつもりじゃなかった印象を与えたのがあなただし、それに対して訂正をしたのがあなただ」ということになると思う。

 

印象は、変わるものもあれば変わらないものもある。実際に接しない限り、変えられるタイミングは存在しない。1年前にいつも落ち着いて、こちらの連絡を好意的に受け止めていてくれた人が、1年後の今も落ち着いていて、こちらの連絡を好意的に受け止めてくれるとは限らない。

 

ずいぶん久しぶりにFacebookで連絡してみた人から、返事が来なくて、少々落ち込んでもいるのですよ。でも、そんなの仕方ない。だって、会えなかった間にその人に何が起こったか、そして今の今、どういう心境や環境でいるかなんて、連絡してみなければ分からなかったのだから。

 

なんつーか、みんな、物理的な肉体としての私のことも、ちったー大事にしろよ、と、そういうことです。

 

小さいけれど本当に痛い

いつもいつも、愚にもつかない私の頭の中のことばっかり書いていますので、今日は口の中のことを書きます。

 

口内炎ができて、めっちゃ痛いんです。

 

はたしてこれは、口内炎だろうか? 口唇ヘルペスの、かなり内側にできている発疹ではないだろうか? しかし口の中にできた口唇ヘルペス口内炎に含まれないかどうかは分からないので、口内炎なのかもしれない。

 

とにかく、めっちゃ痛い。

 

最初は、がりっと噛んでしまいました。上唇の右の裏側を。なんか食べてるときに、間違って、思い切り自分の唇を噛んでしまった。

 

旅行から帰ってきたばかりだったので、はあ、食べながらぼんやりして外国語を話すイメージでもしてたら唇が勝手に動いてしまったのかなあ、と思っていた。

 

が、思えばたぶん、あのときから唇は腫れていたのだ。腫れていたのに気付かず、あごとか歯とか唇とか、いつも通りの動きをしてしまったものだから、腫れている部分が歯にひっかかり、そのままがりっと噛みきってしまったのだ。

 

噛んだだけの傷だったら、そろそろ治ってもよいと思う。しかし、ぜんぜん治る気配がない。食事をするときにしみて痛い。笑うときにひきつって痛い。普通にしててもほんんのり痛い。

 

ふだん、人間の体って、無意識にものすごくたくさんのことをコントロールしているなあ、と思います。子どものころは、もっとよく口の中や舌を噛んでいたと思うのだけど、この頃あんまり噛まなくなっているのはなんでだろう。慌てて食べたり、食べながらしゃべったりしてないからかな。

 

ほっぺたの内側を噛む回数が増えてきたら、それは体のゆがみが進行しているサインだとも聞いたことがあります。体のゆがみ、あんまりいいイメージじゃないけど、人間はハイハイを始めたときから、ゆがみが始まるのですって。それってもう、ゆがみじゃないんじゃないでしょうか。そもそも左右の目も完全な対象形ではないし、内臓だって、片方にしかないものってけっこうあったりするんでしょう? よく知らないけど。

 

だんだん話がゆがんできました。私の口の中の話です。口内炎を早く治すためには、野菜を食べた方が良いのだと思います。しかし、野菜を食べようとすると、ドレッシングや塩分がしみて痛い。青汁を飲めばいいのか。青汁、定期購入をしているのが、どんどんたまってます。だったら飲め。

 

口内炎と、もう一つの悩みは、体にできたシワとか衣類の跡がいつまでも消えないことです。これは、青汁では治らないでしょうね…。

 

とりあえず、青汁を飲みます。ではでは。

 

さわるために買ってきたもの

実は、この夏は1週間ほど海外にいました。半分仕事、半分趣味、といったところでしょうか。というか、今の私にとって、仕事と仕事以外ってあんまり切り離せなくて、すべてが自分の人生を楽しむためにやっていること、という感じなので、あまり区別に意味がない、と思っています。めっちゃめちゃ公私混同、ではありますが、それを非難する人もいない。いい身分ですこと。

 

「すべてが自分の人生を楽しむためにやっていること」って、なんて素敵な響きでしょう。今の私にとっては、眠ることも、食べることも、仕事をすることも、ブログを書くことも、友達と会うことも、すべてが自分の人生を楽しむためにやっていることです。

 

ただ、唯一、やりたくないと思いながらやめられないことがあります。スマホツイッターをだらだら眺めることです。これ、本当にやめたいと思っているのに、やめられないのです。なんでだろう。

 

なんでだろう、と考えることには意味がなくて、少し前にはスマホのトップ画面から、何度もスライドさせなければ表示できない場所(って言い方で伝わりますかね…)へ、ツイッターのアイコンを移動させたことがありました。少しは抵抗になって、タイムラインを眺める時間が減るのではないかと。

 

しかし、トップ画面からアイコンへの移動時間が長くなっただけで、実質、ツイッターを開いている時間はあまり減りませんでした。

 

ツイッターを眺めているのは、たぶん、安心するのだと思います。いろんな人がいるなあ、と。嘆きたい、ぼやきたい、愚痴りたいのは、私だけではないのだなあ、と。

 

しかし、ツイッターのタイムラインを眺めるくらいなら、本を読めばいいのに、といつも思うのですが、タイムラインに並ぶ言葉と、本に並んでいる言葉は、何が違うのでしょうか。私には、ずっとこれが疑問です。

 

1つ思いつくのは、情報(文字)ではない部分で身体がラクであり、心地よいのではないか、ということ。

 

スマホと比べると、本は重い。そして、スマホの画面のさわり心地が、私にとっては本の紙の手触りよりも、心地よい。

 

この、心地よいという感覚はたぶん人によって好みの分かれるところであって、コットンの肌触りが大好き、という人もいれば、和紙をさわっていると落ち着く、という人もいるのだと思います。

 

私は、つるつるしたものが好きなのです。つるつるして、ひんやりしたさわり心地のものをさわっているのが好きなのです。

 

というわけで、海外に行って、1つだけ自分へのお土産として、こぶし大のハート形の石を買ってきました。きれいな石です。寝る前に、さわっていると、すごく落ち着くのです。これから、気分が落ち込みそうなときには、スマホではなくてハート形の石を手のひらに置こう、とそんなことを思っています。

 

ではでは。

時間が流れるのは早くない

あらまあ、また日にちが空いてしまいました。皆さま、お変わりありませんでしたでしょうか。

 

私は、よく遊び、ぜんぜん勉強していないので、なんだかものすごく日に焼けてきました。5,6年前は、シミそばかすが怖くて、絶対に日焼けしてはいけないと思っていて、どこへ行くにもしっかり日傘をさしておりましたが、そんな日々がはるか昔のことのようです。

 

実際、5、6年前というのは、はるか昔だと言ってもよいのかもしれません。44年も生きている私からしてみたら、5,6年という期間は、自分でもしっかり記憶があるわけですし、44歳と38歳と、そこまで何かが大きく違うわけでもない、という気がするのですが、その一方で、小学校に入学した子供は卒業する年齢になるわけですし、そこは、大きな違いと言ってもよいような気がします。

 

しかし、いくら何でも2,3年前はついこの間のことだと思いたい。思いたいですよ。石の上にも3年といいます。3年くらいはあっという間に過ぎるのが大人だという気がするのです。

 

が、私にとっては、やっぱり3年前もものすごく昔です。たった3年前の夏のことが、もうはるか昔のことみたい。

 

私には、よく人々がいう「ついこの間のことのよう」という感覚がありません。私にとって、「ついこの間のことのよう」なのは、12時間以内くらいです。24時間も経つと、ものすごく昔のことのように感じます。昨日のことでも、え、私、そんなこと言ってました? 若かったんですねえ、スミマセン…みたいな。

 

よく人々がいう「ついこの間のことのよう」っていうのは、たとえば、子供の結婚式で、「ついこの前までおむつしていたあの子がねえ(ぐすん)」とか、めっちゃ久しぶりの同窓会とかで、「一緒にいたずらとかしてたのがついこの間なのになあ(がはは)」とか、そういうシチュエーションです。

 

なんか、紋切り型すぎて、今、書きながら「みんな、本当にそう思ってんの???」って気がしてきました。同調圧力を侮ってはいけません。もしかしたら、みんな本当は「ついこの間」っていうのがどんな感覚なのか、分かっていないのに、分かっているふりをしているのではないですか?

 

私は、そういう風に自分を偽ったりするのがものすごく苦手なので、社内でかわされる「もう8月も終わりですよ」「早いですねえ」とか、「あと4か月で今年が終わっちゃうなんて!」「ホント、1年ってあっという間ですよね」とか、そういう会話がものすごく苦手です。だって、私にとっては8月の最初なんて覚えてないくらい昔のことだし、1年間でどんだけのことを考え、どんだけ状況が変わってきたか、自分でさっぱり分からないくらいなので。

 

って、書いたことも、たぶん24時間後には忘れてるんです。

 

ひたすら元気な夏です

おはようございます。元気です。前に投稿してから、こんなに時間が経っているとは思いませんでした。びっくり。

 

もしかして、心配していてくださった方がいたら、たいへん申し訳ありません。申し訳ないくらいに、毎日、とても元気でした。

 

ああ、私、本当に元気だ。

 

このブログを始めたころ、私はぜんぜん元気じゃなかった。いろいろ傷つくことばかりで、身体的にも明らかに頭痛とか腹痛とか、不調が続いていて、それってたぶん、何かばい菌とか腫瘍とかの物理的な問題ではなくて精神的なストレスからくるもので、とにかく、健全じゃなかったんですよ。あの頃は。

 

でも、今は、元気です。もちろん、ときどき落ち込むこともあるし、焦ることもあるし、あああああ、ってなって、わけのわからない投稿をすることもあるけれど(っていうか、わりとこれは元気なときもそうですが)、でも、ああ、私は今、元気だなあ、って思える。思えるんですよ。

 

正直、今は「誰か私と一緒に老いてくれないか」って、あんまり思わないです。パートナーが欲しくないわけじゃないけど、誰かたった一人のパートナーがいなくても、私、大丈夫かもな、って思えます。思えるけれど、これを文字にした瞬間、いやいやいやいや、やっぱりパートナーほしい、って思います。

 

あ、そういえば、5日ほど前に新しい出会いがあって(っていうか、普通の人はそれを出会いとは呼ばない)、ああああ、この人すてきかも、10年後、私はこの人と一緒に暮らしているんじゃないかしら、ってものすごくクリアにその未来が想像できてしまい、別れて2時間後くらいにFacebookの友達申請が来たのでその未来を確信したのですが、そのまた2時間後くらいにその方の奥様との仲良さげにしている投稿を発見して、うーん、私のあの確信はなんだったんだろう…と思いました。思ったけど、べつにいいんですよ。未来を想像できる力が、未来を生きていく力になるのですから。

 

元気じゃなかったころは、自分の未来がぜんぜん想像できなかった。自分が生きていくってことが、想像できなかった。

 

でも、今は次から次へと、いろいろ想像できます。正直、いろんな選択肢があります。まだ想像できていない選択肢もたくさんあるって、思っています。

 

そういえば、毒舌でちょっと怖いかもと思っていた友達との飲み会は、とても楽しかったです。毒舌は変わっていなかったけど、私のことを攻めたりバカにされたりしなくて、むしろ彼女のほうがすごく悩んでいて、そして「うさぎと飲めてよかった」って言ってもらえて、とてもよかった。

 

いろいろ、いい夏です。

 

残暑お見舞い申し上げます。

 

あ、パートナーとして私と一緒に老いてくれる誰かはまだ見つかっていませんが、ここを読んでくださっている皆さんも、私と一緒に老いていくわけなので、ブログはたぶんもうしばらく続けます。よろしければお付き合いを。

 

お出かけ前の1000字

わーい、夏休み!

 

暑いし、雲はもくもくしてるし、空は青くて太陽がまぶしいし、仕事はしてないし、心身ともに健康だし、なんだかもう、ほんとに、まさに、わーい、夏休み! という気分でおります。ああ、うれしい。

 

今日、めっちゃ久しぶりに会う友達と、ビアガーデン行ってみようか、って話になって、それも楽しみです。楽しみだけど、ちょっと怖いです。なぜならその友達は、ばりばりに仕事していて、かなり毒舌だから。おしゃれにも厳しいので、さっきあわててマニキュアを塗りました。塗ったところでダメ出しされるかもしれないけど、とりあえずやれるだけのことはやった、と思いたい

 

マニキュアがまだ乾かないので、指と指がぶつからないようにして、タイプしてます。

 

繰り返しますが、外はものすごくいい天気、空が青くて太陽がさんさんと照っています。雲は、申し分のない、夏の雲。

 

ああ、しかし、出かける準備万端で書き始めたつもりが、いろいろ忘れていることに気づきました。ビアガーテンの前に、友人のコンサートにも誘われているのですが、コンサート会場というのは、えてして冷房ががんがんに効いているものです。私は、とにかく冷房がダメなのです。レッグウォーマーとストールを荷物に入れなくては。ああ、レッグウォーマー、どこ行ったかな。持ち運び用に、いつもポーチに入れて用意しているのだけれど、その場所を忘れてしまったら、持っていけないではないか。

 

ストールをかばんに入れるときに、マニキュアがよれてしまいそうだ。ああ、懸案事項がいろいろ。

 

しっかし。

 

そんな懸案事項くらいで凹まないぞ。私は、夏休みを謳歌するのだ。落ち込んだり、ふさいだり、心配したり、不安になったり、心がざわざわしたり、焦ったり、そんなものは、この暑さで蒸発してしまえばいいのだ。

 

東京は夏なのだ。しっかりこの夏を味わうのだ。

 

うーん。どうしよう。このまま1000字まで書き続けると、コンサートに遅刻しそうな気もする。

 

お風呂があふれるのとコンサートに遅刻するのとだったら、どっちが被害が大きいだろうか。

 

どっちもそれなりな被害だという気がする。

 

コンサート、遅れたくないです。遅れたくないけれど、ここで書くのをやめるという選択肢は、私にはないです。そういうところは、意地でもやりとげるのです。

 

たぶん、私は、頑張り屋さんなのですが、頑張る方向がいくぶん成功者の方向とずれているのだと思います。

 

だから、成功はしないけど、いつも幸せです。

 

行ってきます!

 

悲しいことを上回る幸せ

ものすごく久しぶりに、1日2投稿。なんとなくそういう気分なんです。なんとなくそういう気分だからって、ビールを飲みにお店に寄ってしまったことを後悔した話を昼間に書きました。なんとなくそういう気分だから、2本目の投稿をしてみようと思ったわけですが、30分後にものすごく後悔していたらどうしよう。私、もう自分のこと、なんにも信用できないぞ。

 

今日は、気分のよいことが2つあって、2つとも、仕事関係のことです。1つは、大きな仕事を区切りのよいところまでやりきった。これは、ゼロの段階から、今のところの成果物で言うと、A4のWord文書にして、7ページほどの文章を作り上げたという段階です。自分で読み返してもなかなかに面白いし、世の中に出したら面白がってくれる人もいるのではないか、ということで、満足しています。いや、満足してちゃダメなんだけどね。まだ公開できるところまでずいぶんと作業が残っているので。

 

もう1つ、気分のよいことというのは、尊敬している女性から褒められた、ってことです。昨日、資料をつけて送ったメールの返事が来て、そこにいろいろ、私の仕事を褒める文言が並んでいたので、嬉しい。この人とは、とあるコラボを画策していて、私の力量なんて足元にも及ばないので、もしかしたらこの先、見切りをつけられて捨てられる可能性だってないわけではないけれど、そんなことを今、考えても仕方なくて、とにかくできることを一歩、一歩、やっていくしかなくて、その一歩を褒めてもらえた、ということなので、嬉しい。

 

こういう2つ、嬉しいことがあったから、たぶん気分が上がっているのだと思います。だから、ブログを書こうって気になったんだと思います。

 

でも、悲しいことも1つありました。それは、貯金の残高を見てしまったということです。貯金の残高を見てしまったことが悲しいのか、見てしまった数字がものすごく小さかったことが悲しいのか、それとも残高が引き出そうと思っていた金額に全く足りなかったことが悲しいのか。

 

全部です。全部悲しい。ってことは、悲しいことは3つなのか?

 

いや、なんか私、大丈夫だな。こうして書いてみても、貯金の残高がぜんぜんないってことなんて、どうでもいいくらい、最初に書いた2つが嬉しいことだな。

 

お金は後からついてくる、とかそういう都市伝説を、私は信じていませんが、信じていないからこそ、自分の感覚は信じる。お金のことさえ考えなかったら、私、めっちゃ幸せですわ。

 

さーて、帰ろうっと。ビール飲まずにまっすぐ帰るぞ!