いい気分と失敗した話

はい、あと11分で日付が変わります。

 

昨日はすっかりブログのことを忘れていました。そういう日が最近多い。2日空くのは悔しいというか、さっき、今日は何か書こう、と思ってパソコンを開いたのに、ネット内というかはてなブログ内をうろうろしてたら時間が過ぎてしまって、おっと、このままだと日付が変わるぞ、まずいまずい、というわけで、書き始めました。

 

すこぶる体調がよい状態は続いていて、しかも今日は仕事がうまく行って、とても機嫌がよいです。うれしい。人間って、脳みその状態で、こんなに生きていくのが楽だったり、大変だったり、するのな。現実は何にも変わってないし、相変わらず私は、どんどん老いていくだけだというのに。

 

しかし、悲惨なこともありました。昨日、久しぶりに靴を買ったのですが、大失敗でした。少し前に、このブログにも、自分を好きだと思えるハイヒールを買いたい、なんて書いていましたが、昨日の買い物はまるで失敗だった。バーゲンで40パーセントオフになっていたとはいえ、8000円以上のお金を使って、1回はいたらもうこりごり、なんていう靴を買ってしまった。とほほ。

 

昨日、靴屋で足を入れた瞬間は、「これだ!」と思ったのだけどなー。そのときは、特に痛いところもなかったし、きついとも思わなかったのだけどなー。なんでこんなにきつい靴を買ってしまったのか。朝、駅ですぐに絆創膏を買い込んで、当たりそうなところ、痛くなりそうなところにはしっかり絆創膏を貼っていたというのに、そんな予防をもろともせず、ひっどい靴擦れになってしまった。あー、やだやだ。

 

この靴を、どうしたらいいのか。ちょっとやそっとの調整では、たぶん履きやすくなんて絶対にならないくらい、きつい。だからといって、今日1日履いてしまったし、返品もできないし、だれかに履いてもらうのも、めんどくさい。

 

デザインは悪くないと思うのですがね。うーん、どうしようかな。きっぱり捨ててしまうのが、あとくされがなくていいと思うのだけど、やっぱりあまりにももったいない気がする。

 

しかし、靴を買うのって難しいなー。半日くらい試し履きしないと、痛くならないかどうか、わからない。

 

と、思ったけれど、冬のパンプスで、痛くないのがあった、私。あれと同じものを買えばいいのか。同じブランドの同じ型のものを買えばいいのか。

 

あー、焦って失敗したなー。買ってしまった靴の処分はまたあらためて考えることにして、とりあえず、痛くならないとわかっている靴を、また近いうちに買いにいこう。

 

おやすみなさい!

具体的なことを書きたい

せっせせっせと働いております。そうか、仕事って、こうやってやるのかー、と43歳にもなって、やっとわかったことがある感覚。

 

これまでやったことのない仕事なので、これまでやり方がわからなくて焦るばかりでしたが、ほんの少しのお金を払って、やり方をサポートしてもらうシステムを入れました。そしたら、自分の体が動くようになった。何をしたらいいのかわからなくてデスクの前で悶々と1日を過ごす、みたいなことはなくなりました。

 

まあ、これがうまくいくのかどうかは分からないけれど。

 

そして、別の業務で大ミスをして、明日の朝が怖くもあるけれど。

 

仕方ないのよー。できることをやっていくしかないのだから。

 

あまり抽象的なことは言いたくないのですがね。具体的なことを言えないのは、なんででしょうね。具体的に何かを伝えたい、読者にとって有益な情報を開示したい、という欲よりも、自分の頭の中のごちゃごちゃを文字にして表したい、安心して好き勝手なんでも書きたい、という欲のほうが上回っているので、今はこういうスタイルで毎日書いているのでしょうね。

 

少し前に、会社の方のブログで書いた記事が、これまでにないPV数になりました。これまで、PV数を稼ぐのは自分のFacebookのタイムラインにリンクを張ったときだけだったのに、今回は、それもなしでたくさん閲覧してもらっている。

 

固有名詞をたくさん入れたり、有名どころのエピソードを入れたり、といったことをしただけなので、自分の筆力でもなんでもないわけですが、それでも、自分の作った文章を、たくさんの人が読んでくれたというのはうれしいものです。

 

文章を書くのが好きなんだよなー。メールを書くのも好きなんだよなー。

 

もっといろいろ書くことを、仕事として増やしてみようかな。って、どうやって増やすのか分からないけれど。

 

仕事だって、簡単にもらえるわけないってことも、わかっているけれど。

 

ああ、今日は抽象的なことしか書けないですね。やだな。あんまりそういうのは、好きじゃないのです。

 

では、何を書こうか。目に見えているもの。

 

目の前にある、デジタル時計。壁にかけてある時計は、私の背中の方にあるので、パソコンの作業をしながら、顔や体をひねったりしなくてよいように、机の横に、小さなデジタル時計を置いています。前の会社のデスクでも置いていたもの。時間と日付が一目でわかるので、重宝していた。「今、西暦何年か、平成何年か」も、書いて貼り付けていた。一目でばっちり、年月日と時刻がわかるように。

 

と書きつつ、そんなのパソコンの画面で確認すればいいんだよな、と思った。でも、なんだか知らないけど、それは嫌いなの。たぶん、字が小さすぎるから。

 

おやすみなさい。今、11:20です。

 

 

すこぶる体の調子がいい

今日中に書かなければいけない原稿があって、でも、その原稿の材料になる資料がまだ届いていなくて、したがって、私は仕事を終えることも進めることもできなくて、まだ会社にいます。

 

まあ、資料を待っているだけじゃなくて、別の仕事もあるからどうせ帰れないのだけれど。

 

帰れないことが、悲しいわけでもなく、うれしいわけでもなく、空しいわけでもなく、ありがたいことでもなく、単に私は今、そういう人生の時間の使い方をしているのだなあ、という感じ。

 

会社の売り上げは相変わらずひどいもんだけど、なぜだか私はすこぶる体調がいい。少し前まで、頭やお腹に感じていた違和感や痛みが、いつのまにやら全くなくなっている。少し前まで、痛いような気がするな、いや、気のせいだ、甘えてはいかん、自分で痛いことを言い訳にしているんだ、本当に痛いかよく考えろ自分、みたいに痛みを打ち消していたような感覚があったけれど、今は、本当に何の違和感もない。快調。

 

身体に痛みがないというのは、ありがたいことです。私、授乳しているときに何回か乳腺炎になって、乳腺炎というのはもう、本当に本当に、「ああもう、この乳房を切り落としてくれ!」と思うくらい痛くて、そのときに、痛みというのは人間の尊厳を奪うなあ、と思っていました。痛みを取り除くためになら何でもする、という気分になってしまうのです。

 

人間性が、痛みに負けてはいけない、なんていう戦いをするのは非常に精神的に疲れることです。痛みのない身体は、本当に、ありがたい。

 

心と体はつながっているなあ、ということを思います。心が元気になったから体も元気になったのか、あるいは体が元気になったから心も元気になったのか。

 

おそらく後者だと思います。だって、心も体の一部だもの。頭の言うことにそのまま従うのではなくて、体の言うことを素直に聞く。そうすると、言うことを聞いてくれた体が、今度は頭で考えることに恩返しをしてくれるのではないでしょうかね。

 

言うことを聞いてもらえる、というのはそれだけで嬉しいことですから。存在を認めてもらえる、そのままを受け止めてもらえる、ありのままをそれでいいと言ってもらえる。そういう安心感があると、心も体も、リラックスできるのではないでしょうかね。

 

って、こんな抽象的というか、スピリチュアルというか、何の確証もないようなことを書くのはキャラではないのですがね。なんとなく、今の私はそういう気分なんです。

 

そういう気分を起こさせるような身体の状態、ということです。つまり体調がいいんですね。

 

親子それぞれの人生

人と比べると落ち込んだり、調子に乗ったり、いろいろあんまりよくなくて、比べるべきものは過去の自分だ、みたいに言われることがありますが、現在の私の場合、過去の自分と比べると、あーあ、年とっちまったなあ、みたいにこれまた凹んだり、あるいは、あーあ、もうどうでもいいわ、みたいに開き直ってしまったり、どっちにしても、あんまり人間的に成長できない気がして、よくないですわー。

 

そもそも、人間が死ぬまで成長し続けなきゃいけないという前提そのものが、いかがなものか。人間、死ぬまで勉強はしなきゃいけないと思いますよ。というか、私にとって、年をとるというのは勉強をするということだと思います。

 

勉強というのは、学校の科目だけではありません。人間の感情を知るのも勉強。人様の人生を我がごとのように味わうのも勉強。他人と自分は違うと知るのも勉強。

 

私の母は今年70歳で、経済的には私とも、私の弟ともきっちり独立しています(お互いにどちらからどちらへも、仕送りはしていません)が、「子どもが成人した親にとって、いつまでも子どもの親でいられるかは、いかに自分が子どもから何かを学べるか、学ぼうとするか、その姿勢があるかないか、だけだと思う」みたいなことを言うのです。素晴らしいと思いませんか。

 

私は未だに、困ると母親に助けを求めるし、本当に落ち込んだときでも母親だけは私の味方でいてくれると思っているし、いつまでも私は甘える側の人間だと思っているのですが、私の人生にかかわることで、母は自分の人生ではない人生にふりかかる問題を知り、日々学んでいる、というのです。母ちゃん、えらすぎる…。

 

私も、そんな母親になりたいものです。私は、義務教育の間、非の打ちどころのない優等生でしたが、中学2年生の長男は、なかなかにやんちゃです。この前も、友達と深夜まで外出していて、警察に補導されたと言っていました。青春ですなー。お友達に迷惑をかけたとしたら申し訳ないけれど、私は「うひょー、いいねいいね!」と思いつつ、「大丈夫なの? 保護者が必要だったら言いなさいよ。あんたまだいちおう未成年なんだから」と言ったら、「全然だいじょうぶ」と冷たくあしらわれました。しょぼん。

 

しょぼん、っていうか、何も学んでませんね、私。ただ、息子の人生は私の人生と全然違うものになりそうなので、見ていて面白いです。今のところ、ものすごく楽しそうなので、私は安心しています。

 

この前、ネットを使って何をしているのか分からないから、それはまあ、私としても不安だなあ、と思って、「私が守ってあげられないところには行かないでね」と言ったら、「うん」と素直に応じていました。

 

「私の守れないところには行かないで」。私、これ我ながら自分の子育ての名言だと思っているのですが、名言というのは聞き手や読み手が判断するものなので、発した本人が「名言だ!」って言ってるところで何の重みもありませんわね。

 

さーて、今日も勉強します。

 

気まぐれな私の体が好き

ちょっとヒマな時間ができると、すぐにスマホFacebookTwitterのアイコンを押してしまう。「おっと、いかんいかん、こんなことをしていはいかん」と思ってアプリを閉じたところで、さて何をするんだったかな、と閉じたばかりのアプリをまた開いたりすることが、冗談じゃなくて頻繁に起こるので、これはもう、まごうことなき中毒である。南無…。

 

特にFacebookは、「最近、書き込みする気にもならないわー、全然投稿してないー」と思いながらも自分のタイムラインをたどると、週に2回くらいはテキストをアップしたりしていて、そうすると友達の反応も気になってついついアプリを開くし、これはもう、まごうことなき…とほほ。

 

今も、いい加減、ちょっとその時間を減らしたいな、と思っているのだけど、2,3年前にも「いやもう、ほんっとFacebookやめよう」と思ったことがあった。でも、やめられないのは自分で分かっていた。だから、とりあえず半分に減らそう、と心がけることにした。それまで通勤途中で6回くらいアプリを開いていたとしたら、3回にする。そういうイメージ。

 

それは、わりとうまくいった。中毒性のあるものを、いきなりやめるというのは無理なのだ。そして、やめる必要がないこともあるのだ。

 

ずっと何年もたばこをやめたい、と言いつつやめていない友人のことが思い浮かんで、そういえば私は全然お酒を飲んでいないな、ということにも思い当たった。3ヶ月くらいか? 飲みたいなー、とは思うものの、飲めなくてつらい、ということはない。飲めなくてつまらない、ということもない。

 

むしろ、お金の無駄遣いがなくなったし、体重も少しずつ落ちている。これは、お酒をやめたからそれだけで体重が落ちたわけではなくて、お酒を飲むと自制が効かなくなるので、ついついいろいろ食べてしまうことが原因だったと思う。週に1回飲むだけでも、あとの6日間のダイエットを無に帰してしまっていたのだ、飲酒は。

 

自分のコントロールの話ですね。SNSも、お酒も、ダイエットも。最近、自分の時間をコントロールできていない感じがして、かなり落ち込んでいました。落ち込むから、ますます何もできない。何もできないから、ますます落ち込む。

 

ただただ、ひたすら自堕落に過ごして、昨日の朝、ふと元気になりました。Twitterを見ているときに、おっと、私はこんなことをしている場合じゃない、と。

 

きっかけはTwitterで流れてきた動画から、あ、そういえばこういう動画って見たことなかったな、と思い、それを見ているときの自分の感情に気づいたこと。あ、そうか。私、これが好きだったな、もう一回、これを頑張ってみようかな、と思えたこと。

 

だけど、そこに原因を求めたり、「私はこうして元気になりました!」みたいな方法論を振りかざすつもりもない。非科学的(に私には見える)な季節や星の流れみたいなものも、あったとは思えない。

 

ただ、ふと元気になった。

 

私の脳みそは気まぐれだということだと思う。気まぐれだから、勉強やダイエットが続かなかったり、ついついFacebookにはまってしまったりもするけれど、気まぐれだからふと元気になれたりもするので、私は私の脳みそが好きだ。脳みそだけじゃなくて、今、こうしてリズミカルにパソコンのキーボードをタッチしている指の先まで、自分の細胞ひとつひとつが全部好きだ。

 

なぜサボることができるのか

私にはとても良い友人がいるので、「やりたくないことだったらやらなくていいよ」とか、「うさぎだって休みが必要なんだよ」とか、私がモラルに反するとか人を傷つけるとか中毒性のあることに手を出すとかじゃない限り、「うさぎはうさぎのままでいいんだよ」って言ってくれるんですよね。

 

で、私はそれを真に受けて、今日1日、ちょーマイペースで仕事してたんですけど、ふと気づくと、仕事にぜんっぜん関係ないサイトとか見てて、あ…これは…って気づいたことがあったんです。

 

何かというと、前の会社で、隣の席の先輩が、ぜんっぜん仕事しなくて、しょっちゅう机の下でタブレットいじってたり、パソコン画面もあきらかにネットサーフィンだったりして、この人は、なんでこんなに平気でサボることができるのだろうか、って思ってたのだけど、今日の私はまさにそんな感じで。

 

で、気づいたのです。自分で責任持てるからサボっても平気、って思ってるんだなあ、と。

 

その先輩、納期が全然守れない人だったんですけど、それでも、納期の直前になると、ものすっごい残業ばっかりしてたんですよね。逆に言うと、残業がいくらでもできてしまう環境の人で、残業さえすれば取り返せる、って思ったら、仕事に計画性なんてなくなって、サボれるときにはいくらでもサボっちゃえ、ってなる。

 

私は、子供小さかったし、残業も休日出勤も無理だったし、とにかくもう、前倒しできるものはかたっぱしから前倒しして、ほとんど残業なしで納期に間に合わせる仕事を心がけていたんです。

 

自慢すると、同じ納期で私のほうが先に仕事を仕上げたから、上司から「あいつの面倒を見てやってくれ」って、その先輩の仕事を手伝ったこともありましたよ。あー、私ってばなんて優秀な会社員だったんだ。

 

いや、そんな話じゃなくて。

 

なぜ私が今日、ものすごくのんびりできてしまったかというと、自分で責任持てばいいや、って思っちゃってるからなんですよね。苦しむのは自分だけだ、って思うと、全然がんばれない。

 

私はわがままで身勝手な人間ですが、力を出せるのはいつも誰かのため、なのかもしれない。自分のことは好きだけど、自分のために頑張るのって、あんまり得意じゃないのかもしれない。

 

会社員のときは、上司や同僚に迷惑をかけたらいけない、って、一生懸命働いていましたからね。サボってた先輩は、思いっきり私に迷惑かけてましたけど、そこまでの想像力がなかったんでしょうね。

 

ということは、想像力の違いなのかな。人間、遠いもの、はっきりしないものの想像って、リアルに響かないんですよね、きっと。

 

はあ。私、やっぱ組織に戻ろうかなあ、なんてなー。

 

 

歩き出した

おおう、投稿が2日空いてしまった。この2日間で、だいぶ回復したのだ。ひざをかかえていた日曜日から、少しだけ、歩けるようになったのだ。

 

バッターボックス、ねえ。今は、とりあえず向かっているのがバッターボックスなのか、ベンチなのか、はたまたサッカー場なのか、自分の家なのか、わからないけど、とりあえず、歩き出した、感じかな。

 

そうだよ。私がするべきことは、野球じゃないかもしれないのだ。バッターボックスに立て、と言われて、空振りを怖れていたような気もするけれど、なんなら野球なんかやめてしまえばよいのだ。

 

そうね…。

 

バッターボックスで、空振りするのは怖くないの。怖いのは、自分のフォームがみっともないこと。「あいつ、バットの持ち方も知らないんじゃねえの」と思われること。それは、正直、怖い。

 

だって、知らないんだもの。本当に。「バットはこうやって持つんだよ。重くない? 重かったら、少し、持つところを変えてごらん。構えてごらん。もうちょっと上に上げられる? バットはもう少し立てたほうがいい。ここから、こうやって振るんだよ。ああ、ちょっと違うな。腰の位置はそのままで。わきをしめて。もう一回、振ってごらん。」…と、えんえん、バッティング指導の台詞を書き続けてしまいそうですが、何が言いたいかというと、素振りも練習もなしで、いきなりバッターボックスに立たされるのは、恥をかきそうだからイヤなんです、ってことです。

 

せめて、恥はかかないってわかっているところに行きたい…。恥ずかしい、と思ったら負けなのかもしれないけど、恥ずかしいと思うのは私なのだから、恥ずかしい、と思う私の感情を、認めてほしい。私は私で、ああ、私は恥ずかしいんだな、と認めているのだから。

 

で、今は私は何をしているかというと、ふらふらとりあえず、歩いている感じですね。幸い、歩き方は知っているのです。方向は分からないし、どこにたどり着くのか、どれくらいの距離があるのか、分からないけれど、とりあえず、歩き出した感覚はあります。

 

歩いていることは、恥ずかしくないかな。恥ずかしいことはないな。歩き方は、そんなにみっともなくないと思う。ふらふらしてるかもしれないけど。よちよち歩きかもしれないけど。

 

どうか、この足が、もうしばらく、止まりませんように。力ない足取りだけれども、私をどこかに運んでくれるのは、自分の足しかないのだから。一歩を踏み出す、その歩みが、あと少しだけ、続いてくれますように。