脳内のことは適当に流す

普段、炭水化物は控えるようにしているのですが、友達とゲテモノ食いの話で、私はイナゴの佃煮なら普通に食べられる、という話をしていたら、どうにもイナゴの佃煮が食べたくなって、昨日の晩に近所のスーパーで探してみましたが売ってなくて、代わりにアサリの佃煮を食べるために白米のお弁当を買って食べたら、ものすごく体重が増えているという、ゲテモノ食いが憎い朝。

 

あと、オフ会をする夢を見ました。私は「うさぎさん」ではなく本名で呼ばれていて、「なんで私の名前を知ってるんですか?」と聞いたら、なんだか私のネット上での振る舞いが本名の分かるような仕組みになっているとのことで、私はえーそうなのー、と思っていましたが、先方の男性(誰だかわからない)は、「でも、うさぎさんはイメージ通りですよ」と言っていて、結局、私の実生活とは接点がなくて安心してる、みたいな夢でした。

 

なぜか分からないのですが(というか夢なんてみんなそうだけど)、みんなでとあるアイドルの土葬をしていました。私が一生懸命、土を掘り起こして、ある程度掘ると、土の中に空洞になっている部分があって、そこに重い遺体をみんなで運んで土をかける、という夢でした。夢なんだから意味なんてないんだと思うけど、久しぶりにそんなにはっきりした夢を見た。

 

このところ、しっかり熟睡しているので、ほとんど夢を見ないのです。娘がよく夢の話をするのだけど、「大人になるとあんまり夢って見ないんだよー」なんて適当なことを言ってましたが、本当かしらん。子供と大人ではどちらが夢をたくさん見るのかな。

 

誰でも夢は見るけれど、覚えているかいないかだけだ、とも言いますよね。私が最近あまり夢を見なくなったのは、熟睡しているからでも大人になったからでもなくて、記憶力が落ちたからなのかな。わーん。

 

ちょっと運動不足のせいか、肩、腰、ひざが痛いです。プールでがしがし泳ぎたいな。バランスボールではずむだけでもいいな。仕事もしたいし勉強もしたい。運動もしたいし子供とも過ごしたい。

 

やりたいこと、たくさんある。できていないこと、たくさんある。

 

それでも、できていることも、たくさんある。

 

昨日はまた、新しい仕事にもくもくと取り組んでいたら時間が過ぎてしまった。時間を忘れて取り組める作業があるのは幸せ。幸せなうちに、ふと気づいたら、もっともっと年をとって、いろいろなものへの執着が消えているといいな、と思う。

 

執着、愛情、エネルギー、向上心、煩悩、欲望、夢。ものは言いよう。

 

一部の人には有効

毎日これだけはやろう、と年始に決意して続けていた語学の勉強が、この3週間ほどでできなくなってしまい、なんとか挽回するために早起きしてみたのですが、ブログをうろうろしてしまった。これをやめたい。やめたいのだが、ついついやってしまう。

 

やめたいけれどついついやってしまうことは他にもあって、FacebookTwitter、あと友達とのLINE。つまりSNSですね。私はSNS中毒なのです。

 

基本、さみしがりなので。さみしがりだけど、自分ファーストなので、自分をちやほやしてくれるところへ行きたくて、あっちへふらふら、こっちへふらふら。

 

誰も私をほめてくれない、孤独な勉強の世界にいるのは耐えられないのです。本当は、それをやるべきなんですけどねー。

 

本当はそれをやるべき、と書いて、それは本当か?と自分ツッコミ。やるべき、って誰が決めたんだ? 誰のためにやるんだ? やると誰が得するんだ? やると誰が助かるんだ?

 

私は私で、自分を満たしてあげることが最大のミッションだと思うのだけど、がんばってがんばって勉強するのは、何のため? 誰のため?

 

と書いていて、また気持ちが上がってきました。誰のために勉強するのか。それは、過去の自分を裏切らないためです。1年間、勉強しよう、この先の1年間、あなたに勉強することを期待する、と決めた過去の自分を裏切らないためです。

 

自分で自分を裏切り続けると、どんどん自信がなくなっていくのです。だから、未来の自分を信じてくれた過去の自分を裏切らないために、今の自分の行動を決める。

 

私は、こういう風に、自分で自分を鼓舞できる言葉を持っていると思っていて、そこはわりと信じている。言葉にすることで、自分のことをまた好きになれるし、そういう言葉の使い方をするのが自分だって知っている。

 

たぶん、たぶん、ですが、私はこれを他の人に対してもやるのだと思います。だから、一部の人は「うさぎさんと話すと元気になれる」と言ってくれるし、「久しぶりにうさぎさんと話したい」って言ってくれる人もいるのだと思う。

 

全員がそうだとは思いません。私の言葉をネガティブにとらえる人もいれば、正直私がポジティブな言葉をかけられない人もいる。

 

みんながみんな、誰とでもうまくいくわけではない。けれど、なんだか理由は分からないけれど、やたらとこの人の言葉が心地よい、という人もいるのです。人間って本当にバリエーション豊かだなー、と思います。

 

いいかげんな大人になりました

好きな人ができたくらいで幸せになれる年齢ではなくなってしまいましたが、生きていくための張り合いができたというのはありがたいことです。

 

私、とても仕事が好きだったので、子供が生まれて産休に入ったとき、会社に行きたい、とぼろぼろ泣いていました。そのころ、生活の張り合いといえば、近所のスーパーのポイントをためることくらいで、つらかった。ほんと、あのころはつらかった。

 

自由がないことはつらいけど、自由がありすぎるのもしんどい。何もかもを自分で選べる状態というのは、つねに迷ってばかりです。つねに判断を強いられるのも、それはそれでつらい。

 

好きな人はいるけれど、何もアクションは起こさない、と決めているのでラクです。どうにかしてその人とデートしたい、とか、あわよくば付き合いたい、とか、まかりまちがって結婚したい、とか、そんなことを考えた日には大変。あーでもない、こーでもない、と延々脳内会議をしなければいけないのだと思いますが、まあ、幸いにして、そんな年齢は過ぎてしまいました。年齢だけじゃなくて、立場も。

 

夫と別居してまだ2年です。この時点で、新しい恋人ができるのは、いざ離婚で裁判となったら不利になるそうです。正しいことがこの世のすべてだとは思いませんが、自ら進んで世間的に正しいと言ってもらえないことをするほど損得勘定のできない人間でもありません。私は何も悪くない、と言えるだけの理論武装はしておきたい。

 

淡々と、粛々と、毎日をこなす。大人としての責任を果たす。個人としての自由を楽しむ。親としての立場を全うする。

 

なんだか、精神的には非常に安定している気がしますね。

 

少し前のブログを読むと、あー、私はやさぐれていたなあ、とか、あー、このころはふてくされていたなあ、とか、思います。そのころ、そのつもりがなかったとしても、今から見て、過去はつらかった、そして今はそのときより幸せ、と思えるなら、今が幸せだということなので、それでOK。人間、今、この瞬間の幸せしか味わうことはできないのですから。

 

今日は、健康診断です。さっき、うっかりして紅茶を入れて、砂糖まで投入してしまった。いかん、いかん。あー、もしかして尿検査があるのか。とりわすれた。おしっこしちゃった。

 

子供のころ、こういうのは絶対に忘れない優等生だったのですが、なぜか大人になって、ものすごくいいかげんになってしまいました。困ったものだ。

 

その日、その日を生きていきて、先のことが全然考えられない。もうちょっと、ちゃんとしなきゃなー。

 

突然の告白

何をしたわけでもないのに、10時前から眠くて眠くて。もう、今日は何もしないで寝よう、と思いつつ、何を待っている時間だったか、あー、この時間を使って、今日、会社へもっていったパソコンをデスクに置きなおそう…と思ったが最後、いや別に、パソコンが悪いわけではないのだけど、はてなブログをうろうろ、うろうろ…。

 

自分が書くならともかく、なんとなく人様のブログをうろうろしているだけで寝不足になったというのは悔しくて、それならいっそ、と、書き始めました。今朝は1000字書けなかったし。

 

このねー、変なこだわりも、まさに誰得?ってやつですよ。誰の得にもならないと思うのですが。だったら早く寝た方が健康のためって思うのですが。

 

まあしかし人間、損得だけで生きているわけではないですしね。誰に迷惑をかけるわけでもなければ、やりたいことをやったらいいのでは、という気もしますね。

 

眠いー、眠いー。

 

気圧のせいでしょうかね、眠いのは。あ、あと、また膀胱炎になりました。今回は、思い当たる原因もなければ、いつもの“やたら足が冷える”という前兆もなかったので、あれ、いつの間に、という感じです。ここまで何の予測もつかないかかり方で膀胱炎になってしまうと、まったくもって防ぎようがないというか、無防備というか、無抵抗というか、完敗、という感じですね。

 

夕方には頭も痛くて、さっさとバファリンを飲みました。こういうときは、薬に頼るに限る。さっさと医学の力に頼ります。だって、頭痛いのイヤだもん。頻尿も残尿感もイヤだもん。

 

そしてものすっごい唐突にとんでもないことを書きますが、私、好きな人ができました。43歳で、既婚者で、子供3人もいますが、好きな人ができて、今、ちょっとでも脳がヒマになると、その人のことが頭に入り込んできます。

 

おかげさまで、恋焦がれてしくしく泣いたりとか、そのおかげで仕事が手につかないなんてことはありませんが、まあ、それでも好きな人は好きな人で、自分でそういう存在がある、と決めているだけのことで、それ以上のことは何もありません。全くもって、相手にされていないし、たぶん、こんな風に私が思っていることも、向こうは知らないし、知らせるつもりもない。

 

見返りも求めないし、見返りどころか、こちらからは何もアクションを起こさないのだから、反応もない。漫画の中の主人公が好きとか、アイドルに恋をしているとか、感覚としては同じです。

 

何もアクションを起こさない、と言いつつ、今はその人のために生きていくという感覚があって、人間ってホントに、思い込みの人間だよなー、と思います。っていうか、そんなバカな生き方してるの、私だけでしょうか?

 

おやすみなさい。

 

書けないことなら話せる

音声入力のできるガジェットがもてはやされているようですが、私は、しゃべるよりもキーボード入力をする方がずっと楽です。キーボード入力なら10分で1000字くらいを書けますが、たぶん10分で1000字を話すのは無理。

 

友達とのおしゃべりだったらいいかもしれないけど。だけど、友達とのおしゃべりは、「どこにも書けない!」ってことをしゃべるから楽しいわけで、しゃべり言葉でて出てくるのは「書けない」ことばかりなのですよね。

 

ラジオねー。まだ、あきらめきっていない(笑)。

 

昔、ラジオ局に就職したかったのです。大学時代、ラジオが大好きで。

 

諸事情により、ちょいと中断。

空腹と『ミスティック・リバー』

お腹がすきました。夕方から、レタスしか食べていません。昨日、明らかに食べ過ぎたので、今日はあまり食べるのをやめようと思ったのです。たまには空腹に耐えるべし。

 

映画『ミスティック・リバー』を観ました。

 

 

 

発売日が5年前かー。

 

絶対、観たことあるんです。観ながら、そうそう、そうだった。あーそうか、そうだったっけ。あれー、そうだっけか? とか思いながら観てました。ミステリーですけど、全くもって内容を覚えていないのだから、初めて観るのと同じように楽しめました。

 

ショーン・ペンティム・ロビンスケビン・ベーコン。私はケビン・ベーコンが好きですね。昔、好きだった13歳年上の会社の先輩を思い出します。似てるのです。ショーン・ペンは、嵐の大野くんに似てるというか、大野くんってショーン・ペンに似てると思うのだけど、同じことを考えてる人はいないだろうか。

 

私はこういう映画が好きですね。ストーリーとして楽しめて、演技の良さが楽しめる映画。演技の良さっていうのは、登場人物の複雑な心理が、うおおおおリアル!と思えるような映画。

 

単純に「喜ぶ」とか「悲しむ」とかじゃなくて、「笑いながら泣いてる」とか、「怒りの中に悲しみがまじる」とか、そういうマーブル模様の心理を演技で見せてくれて、それがリアルに感じられる映画が好きです。

 

しかし…たった5年の間に見たはずの映画を、まるっきり覚えていないという私の記憶力もいかがなものか。そして、どんなシチュエーションで見たんだか、どんなタイミングで見たんだか、それさえも思い出せない。

 

映画館で見たなんてわけはないから、DVDを借りてきたと思うのだけど…、まだ夫と暮らしていたころ、私はどうやってDVDを見ていたんだっけか???

 

ぜーんぜん思い出せない。昔の暮らしが、ぜーんぜん思い出せない。

 

今のこの暮らしも、5年後には忘れてしまっているのかなー。どんな風に暮らしていたかとか。どんな風にDVDを見ていたとか。

 

どんな料理を食べていたかとか。どんな調理をしていたとか。

 

うーん、ミスティック・リバーはめちゃめちゃ面白い映画だったんですが、それ以上に、今、お腹が空いてしまって…すみません。

 

しかし、我が家に食料がなにもないので、なにも食べられません。今日は、このまま眠るのです。

 

おやすみなさい。

 

ただそこにある大きな存在

昨晩はとてーも仲のいい女友達と食事してました。会うのは2年半ぶりくらい。この間に起こったことを、がんがんしゃべり、彼女がケタケタ笑ってくれて、私も彼女の話を聞き、楽しかった~。食事もおいしくて、しかも地元でお値段は安い。

 

5時間近くお店で過ごしたけど、あっという間だった。その間に、まわりのお客さんたちが3回転くらいしてましたね。たいしてお酒も飲まなかったけど、追い出さずにいてくれたお店の方、ありがとうございました、って感じです。

 

めちゃめちゃ楽しかったのだけど、10時過ぎに8時前に電話の着信があったことに気づいて、それが子供たちから(夫の家から)で、なんだかそれだけで心がざわざわする。もしかしたら、子供たちからのSOSだったかもしれなくて。でも、こちらからかけなおすことはできなくて。なぜなら、私はもう、夫といっさいコンタクトを取りたくないから。その時点でかけなおしたら、子供たちはもう私に用がなくて、夫が電話に出る可能性が最も高いから。

 

子供が自主的に私のところへ来る分にはかまわないのだけれど、私は夫を通さないと彼らにコンタクトがとれないため、それができずにいるのはものすごく悲しいことではあるけれど、仕方ない。子供たちの心身の安全と、安心は、すべて夫の手中に握られているので、夫を信じるしかない。

 

私が何か悪いことをしたわけではないのだけれど、夫に接することが、私の心身の安全、安心に悪影響を及ぼすため、それができない。子供のためには申し訳ないと思うのだけど、そこは、まずは自分を守るという大前提のもと、私は甲羅の中に身をひそめている。

 

この先、いざ離婚だということになるとしても、私は弁護士や裁判所など、第三者を通してしか、彼と接触するつもりはない。直接に、ましてや二人で話すなんて、無理だ。恐怖と嫌悪で、まともではいられない。

 

別居から2年近くが経ち、少しずつ、ここにいれば大丈夫、この状態なら問題ない、という立ち位置やふるまいが分かってきたけれど、それでも、そこから出ていくのは、まだ怖い。自分が傷つくのもいやだし、子供たちを傷つけるのもいやだし、究極的には、夫のことも、これ以上は傷つけたくない。

 

と、楽しかった友人との食事が、すべて夫との関係に対する自分の努力で覆い隠されてしまうほど、私にとっていちどは結婚した相手、愛する子供たちの父親、という存在は大きくて、それはそれで、ないことにはできないことを、認めなくてはいけない。

 

ただ、その存在があり、私と彼にそれぞれ過去があり、経験してきたことと、それに対するそれぞれの思いがあって、その上で今がある。そして、変えていけるのは未来だけ。

 

まだまだ時間はかかると思うけれど、ただ、現実を重ねていくしかない。