そして今に至る

引っ越しの家族の話、続き。

 

大学を卒業して、就職で東京に引っ越しました。母親と大雪の日にアパートを探しにきて、「渋谷」とか「新宿」とか、テレビの中の言葉みたいだった地名が、自分のアパート選びに直接関係してくるのが、なんとも不思議な感じでした。住むことを決めたのは調布のアパート。狭いけれど、きれいで、とても気に入った物件でした。屋上に洗濯機があって、洗濯している間に下着を盗まれたことがあった。1週間分をまとめて洗濯していたので、「パンツを7枚盗まれた」と警察に話すとき、枚数を伝えるのが恥ずかしかった。

 

4年とちょっと暮らして、結婚のために転居しました。夫と部屋を探したのだよなあ。どんな風に探したのだったか、どこの不動産屋に相談したのだったか、何も覚えていないわ…。

 

思えば、このときの家探しだけが唯一、「大人」の力を借りないで決めた住居だった。私の場合はそれまでの家探しはいつも母親がついていてくれたし、この次にマンションを買うときは、夫の父親がいろいろ口を出して、決めるのに義父の許可を得たような感じだった。

 

新婚で決めた家も、気に入っていた。夫の実家の近くで探したのだけれど、安くてきれいでいい物件だった。駅から遠くて、駅まで自転車に乗っていたのだけど、あの頃の私は自分の冷え症を見くびっていたので、冬になるとしもやけを作っていた。寒さを我慢できていた、というのも、若かったなあ、と思う。

 

なんで家を買おう、ということになったのだったかも、よく覚えていない。夫との暮らしで、覚えていないことが多すぎる。彼と結婚して、とてもとても幸せだったはずなのに、幸せだなあと思っていたことは覚えているけれど、その幸せな感覚がよみがえってこない。思い出す感情は怒りや悲しみばかりなのだ。これって、私の脳の機能がそういう風にできているのだろうな。

 

まあとにかく、そのころは幸せに、家を買うことにした。子供が生まれて手狭になったから、だったのだろうな。いずれアパート暮らしは抜け出さなければと思っていたような気もするし。

 

ここまでで、6つ? 5回の引っ越しをしてきたのだな、私は。そして、最後の今、この一人暮らしだ。夫との仲が険悪になり、もうダメだ、と思うようになって、逃げるように、ずるずるといつのまにか別居するようになった。逃げられる場所があってよかった、と心から思う。一人暮らしならなんとかなっても、子供を連れてとなると不動産屋さんには厳しいですよ、と言われた。暮らしていくのって、お金がかかるのだ。

 

衣食住。切り詰めれば切り詰められるけど、あんまりギチギチして暮らすのも楽しくないしなあ。

 

そうだ、今日は通帳の残高を確認しに行こう。ちょっと、このままの生活はよくない、と思っているのだった。

 

体調不良で感傷的になっています

ううう…体調不良…というか、消化不良…。

 

今日はちょっと早く帰ることができたので、いちど家に荷物を置いてからスーパー(生協)へ行ったのだけど、お腹が空いていたのと、なんか栄養のあるもの食べよう、みたいな意識が働き、ハムカツとサーモンのお刺身を買って帰ったのですね。

 

で、家にかえってがつがつ食べてしまったら…これを胃もたれと言うのだろうか。気持ち悪くて、動けなくなってしまった。2時間くらい横になっていたけど、気持ち悪さが収まらないので、もう仕方がない、とあきらめて、さっきトイレで意図的に嘔吐しました。これ、私、ときどきやるのです。吐くの大嫌いだけど、吐いてしまえばラクになるので。

 

揚げ物も、脂身の多い肉や魚も、控えなければいけない年になっているのだなあ。嗚呼、加齢。いやー、年をとった、と思います。子供を産んだころから、生クリームがダメになったのは意識していたし、5年くらい前に調子に乗ってギョーザを食べ過ぎて嘔吐したのも覚えているけれど、今日はたかがハムカツ1個とサーモン1人分で…。消化酵素が足りないんだわ。

 

なんかなー。食べたいものを好きなように食べるということさえ、しない方がよい身体になっているのか、私の身体は。老いているなあ。確実に老いているなあ。

 

老いていく身体に抗うよりも、自分の身体を慈しみながら、苦しめることなく生きていきたい、と思う。私というわがままな人間がしたいことのために、身体をぎりぎりと締め上げて、ムチ打って機能させるのではなく、私にしか大切にしてあげられないこの自分の身体を、心地よく、生き物としてまっとうに役目を果たせるように。

 

過去には豊胸手術したいだとか、いろいろ言ってたような気もしますが、どうか今はしばしお忘れください。今の、この瞬間の、気持ちは、上記のような感じなのです。昔は昔、今は今。今の自分に正直に、ひたすら今に正直に。

 

これまでの人生、わりとまわりの人のために生きてきた部分も大きかったと自負しておりますが、今の私は、誰より自分を大切にしてあげたいと思うのです。自分の心と、自分の身体を。だって、最後の最後まで一緒にいるのは自分だから。どんなに私のことを、私以上に愛してくれる人がいたとしても、あるいはこのさき現れるとしても、私の人生まるごと全部そっくりそのまま知っているのは私だけだから。

 

ちょっと誰かを傷つけてしまったときの自分を守りたかった気持ちとか、立場上だれかを守ったときに負った自尊心の痛みとか、うまくいかないことをあきらめたときに残った悔しさとか。

 

いろいろね。いろいろあるのよ。

 

うん。だいぶ回復したので、がんばって勉強します。こうやってほんのちょっとだけ、私が毎日がんばってるのも、私は知ってる。

 

引っ越しと家族の話

おはようございます。最近、朝起きるのがラクになってきました。季節のせいですかね。冬はつらかった。冬のないところに行きたいなー。

 

住むところを変えるというのは、すごくコストのかかることですね。アメリカ人とかすぐに引っ越しするイメージですけど、あの心理的ハードルの低さっていうのは、何なんでしょう。逆に、日本人があまり住む場所を変えないのは、何に固執しているのでしょうね。

 

あまりアメリカ人、とか、日本人、とか、実態がありそうでなさそうなものの話をするのは好きではないので、具体的に考えると、私はこれまでに何回引っ越しをしたでしょうか。生まれたのは愛知県のど田舎です。愛知県も、私の家があった市も、田舎ではありませんが、私の家があった、もっと言えば、私の祖母が先祖代々住んでいた場所はど田舎なんです。ちなみに父親が今、ひとりでそこに住み続けています。父さん、あなたはなぜそこから引っ越さないの???

 

高校までをそこで過ごして、大学時代は神戸でひとり暮らしをしました。めちゃめちゃ古い文化住宅での一人暮らしを始めたのですが、阪神大震災でこの下宿が全壊しまして、寮に引っ越しました。全壊といっても、くしゃっとつぶれたわけではなく、壁土が落ちたとか、外階段が離れたとか、そういう程度の壊れ方でした。そうなんですよー。私、阪神大震災を、神戸で経験してるんですよー。単に引っ越しのことを書こうと思ったのに、書き出すといろいろくっついてきますね。

 

引っ越した先は大学の寮で、シェアハウスでした。1つの玄関に部屋が3つ。それぞれの部屋にミニキッチンがついていて、共有するのは洗濯機とお風呂場だけ。シェアハウスというと、和気あいあい、みたいなイメージがあるかもしれませんが、ほかの部屋の住人とは、いっさい交流がありませんでした。どんな人が住んでいたのか、全くもって思い出せないくらい。今の私だったら、図々しくコミュニケーションをとろうと過剰な社会性でもってあとの2人の生活に踏み込んでいたかもしれませんが、そのころの私は、ごくごく普通の、正しい大学生でした。全くもってお互いの生活に干渉することなく、ひたすら他人として顔を合わせないようにして同じ屋根の下で暮らす。あれは、ある意味で理想の家族だったかもしれません。絆なんて何もないけれど、存在を認めて、配慮しつつ暮らす。お互いがお互いに対して何の期待もなく、心配もない、という共同体。それって共同体って言うのかな?

 

ここまでで、3つですね。続きはまた今度。では~。今日も東京は寒いのかな?

 

頭につらつら浮かぶまま

めーちゃめちゃ寒い。なんじゃこりゃあ。季節は夏に向かっているはずではなかったのか。冬じゃないか、これでは。朝、ちょっともう季節に合わないかと思ったけど、コート着てストールも巻いていってよかったよ。帰り道で凍え死ぬところだった。何なら手袋も欲しいくらいだった。

 

将来のことで、どうなるかは全く分からないし、どんな仕事をしているか、とかどれくらい自由になるお金があるのか、とか全然分からないけれど、住む場所を変えたいなあ、というのは強く思っている。今の部屋が終の棲家だとはまったく思えない。

 

一人で暮らすなら、もっとこじんまりした部屋がいい。大学生みたいなワンルームで十分。誰も呼ばないし、ひとりでひっそり暮らしたい。ベッドと、クッションと、バランスボールと、パソコンと、Wi-Fi環境があれば、それでいい。

 

日本じゃないところに住むのも夢。そこに何年くらいいられるのか、全く分からないけれど。少なくとも2年くらい、暮らしてみたい。50代になってから、何なら60代になってからでも、2年くらいなら暮らせる気がする。あまり年をとってから行ってもつまらないから、10年以内くらいには行きたいかな。

 

あるいは全く違う方向で、親の家に居候させてもらうとか。父親の方の家はかなり住みにくそうだから、母親の方かな。でも、やっぱり一緒に暮らすのはきついな。一人暮らしがいいな。

 

今日は会社でもブログの記事を2つ書いて、どわーっとメールの返事もして、なんだかもう、言葉があんまり出てこないわ…。無理に書く必要もないのだけれど。

 

最近イメージしているのは、新聞の4コマ漫画。必ず4コマで、必ず毎日。たまに掲載されてない日もあるけれど。同じペースで、同じ分量を創出し続けるからこそ、プロなのですよね。私はもちろんブログのプロではまったくありませんが、しかし、同じペースで同じ分量を書くことに、なぜだかとてもこだわっています。

 

あ、そうか。もう一つ、同じくらいのクオリティ、も求められて、それに応えられてこそのプロですね。好きで書く、というのと、仕事で書く、というのの境目が、その3つに集約されていると思います。

 

クオリティ…。私の場合、どんな方向にクオリティをめざしたらいいのか分かりません。ただひたすら正直に、頭に浮かぶことを書いているだけなので。

 

これが、私の脳内のクオリティなのです。これ以上でも、これ以下でもない。ありのままの私なので、知り合いに読まれたら、かなーり、恥ずかしいです。

 

おやすみなさい。上にも下にも毛布をしいて寝ます。

 

 

挫折に落ち込む

チャレンジなきところに挫折はないわけで、挑んでいるからこそ失敗をするわけで。

 

ちょっとした失敗に、今、心がふさぎそうになっていますが、それは私が挑戦をしているからなんだ、と自分を鼓舞しています。何もかも投げ出してしまわないように、心をつなぎとめています。

 

なんのことかって、ダイエットのことです。連休中、わりと順調に体重を減らしていたのですが、昨日、油断して昼、夜、さらにいろいろ間食をしたら、一気に体重がどーんと増えました。これ、むくんでいるのでしょうね。糖分が水分を引き寄せて、身体がむくんでいる。そんな気がします。そんなにすぐに脂肪が増えるとも思えないので。

 

落ち込みたくないので、挑戦なんてしたくないです。体重計に乗ることがなければ、数字が増えていることには気づかなかったはず。

 

なんですが、うん。書いていることで、また、元気になってきました。体重計に乗っていなければ、自分はどんどん体重を増やしていたはず。どんどん見苦しい体型になっていたはず。

 

実際、連休中は、自分でも鏡を見てあごのあたりがちょっとスッキリしてきた、と思っていた。その満足感、安心感、自己肯定感を、いちど数字が増えたくらいのことで覆してしまう必要はない。

 

前向きに考えよう。季節もちゃんと夏に向かっている。数字を克服していこう。食べたい気持ちを抑えて、自分に打ち克ち、勝利を手に入れよう!

 

と、逆にちょっと暑苦しいくらいの書き方をしてしまいましたが、まあ、そのくらいの気持ちで頑張る。投げ出さない。あきらめない。正直、あと4キロ、いや、2キロでいいから減らしたい。

 

まあ、ダイエットはわりと本当はどうでもいいんですけど、なにかに挑戦するエネルギーを、持っていないと枯れてしまうのですよね。いっそのこと枯れてしまったらラクなのだろうな、とも思いますが、なかなかそういうわけにもいかない。

 

母親を見ていても、まだまだ元気ですからね…人生がこんなに長いなんて、知らなかったわ~。

 

エネルギーを仕事に向ければいいのに、と私も思うのですが、仕事こそ、挫折が待ち受けているのではないかと思うと、ほんと、腰が重いです。ついつい、別のことを優先してしまう。どこかで時間を区切って、考えて、決めて、実行していかないと、ずるずるジリ貧…きゃーこわいー。

 

お金を稼ぐって、大変なことだな、と思います。何に対して人はお金を出してくれるのか。人からお金を出させることばかり考えているのもイヤなものですがね。でもまあ、これも挑戦。

 

よし、仕事もダイエットも、がんばろー。

 

 

 

 

ほんまにめっちゃどうでもいいこと

朝に悩んでいたこと、やっぱり今日も先送り。で、ぜーんぜん、関係ないことばかりを考えていて、突発的にラジオ番組やってみたい、とか、本当に何の生産性もないことを考えるようになってしまいました。

 

はあ。

 

お腹がすきました。そろそろお酒も飲みたくなってきました。お酒を飲むと、ついつい食べ過ぎてしまうことが多かったので、やっぱりお酒はダイエットの敵ですね。

 

ナチュラルヨーグルトにマシュマロを埋めておくと、マシュマロがヨーグルトを吸い込んでぶよぶよの不思議な食感になり、甘さと酸っぱさが相殺されていい感じのデザートになります。私はヨーグルトが好きです。プリンはあまり好きではない。茶碗蒸しも嫌い。ゼリーは好きだけれど、お腹は満たされない。かき氷は嫌い。あれは、ただの水を凍らせたものなんだから、デザートとしては詐欺なのではないかと思っている。

 

しかし世の中にはかき氷の好きな人が多いですね。あと、かき氷のことを、ただ「こおり」と呼ぶ人も。

 

私はその辺の呼び名に違和感のあるものが多いです。清涼飲料を「ジュース」と呼ぶのに違和感がある。ジュースとは果汁100%のものだけを呼ぶ、という正しさに対するこだわりもあるけれど、なんか「ジュース」って言葉ってダサくないですか?

 

あと、アイスクリームのことを「アイス」っていうのも嫌い。なんか、ダサい。このダサさが何なのか、全く説明できないけれど、ダサい、と感じてしまう。ダサい、というか、頭悪い、って感じ。

 

たぶん、ジュースも、アイスも、本来は「清涼飲料」であったり「乳飲料」であったり「アイスクリーム」であったり「シャーベット」であったりするものを、なんかちょっと知らないけれどまるっとまとめた感じで呼ぶのが、ダサい、と感じるのだと思う。

 

たとえばそれは、外国人をみんな「アメリカ人」と呼ぶみたいな感じ。スマホをみんな「アイフォン」だと思っちゃうみたいな、そういう感じ。

 

もちろん、アイスとかジュースとか言う人に「ダサい」とは言いませんけどね。そんなこだわり持っているの、私だけだってことは分かっているので。

 

大学生のときにこの話をしたら、友達が「私は『のど飴』が嫌い」って言ってました。彼女いわく、のどの飴って、言葉のつながりがおかしいやん、と。りんご飴はりんご味の飴、わた飴はわたのような飴。のどの飴はのど味の飴でもないし、のどのような飴でもない、と。のどのための飴をのど飴と呼んでいいのかどうか。

 

他にも例がありそうな気がしますが、眠いので寝ます。寝るためのブログ。寝るブロ。おやすみなさい。