変わらぬ思い

たかが13歳、たかが血のつながった息子、なのに、なぜ私は、長男のことを心の底から信頼して、1ミリも疑うことなく大好きだと思えるのだろう。

 

この私の気持ちが、将来的にも変わるとは思えない。息子に彼女ができたり、もしかしたら彼氏ができたり、さらにもしかしたら誰にも恋愛感情を持てなかったり、するかもしれないけど、それはそれで全然OK。めちゃめちゃ勉強で落ちこぼれて、学校に行くのを嫌がるようになってしまうかも、と想像してみると、たぶんそれはないな、と思える。学校に行けなくなる前に、彼は何らかの手段をとると思う。実際、分からなくなりかけた英語も、塾に行くことを決めた。行かせることにしたのは彼の父親だけど、それを受け入れて入塾の準備を自分でして、今、楽しそうに塾に通っている。

 

学校に行かなくなるとしたら、それはそれで彼が、学校に行く意味がない、と判断したときだ。それはそれで、本当に学校に行く意味はないのだろう。いつかその時が来る。それは大学を卒業するときかもしれないし、大学院を修了したときかもしれないし、はたまた中学校を卒業したときかもしれない。それはそれでいい。彼が高校には行かない、と決断するなら、それでいい。

 

いつか彼が誰かを思い切り傷つけてしまうかもしれない。それは、いつかきっと起こることだろう。心理的な傷かもしれない。肉体的な傷かもしれない。

 

肉体的な傷をつけたら、彼は人生をかけてそれを償うだろう。心理的な傷をつけて、私がそれに気づいたら、そして彼がその相手をまだ大切に思っているなら、「謝ってきなさい」と言うだろう。ヘッセの「少年の日の思い出」みたいだ。人は、誰でも失敗するのだ。失敗したら、謝ればいいのだ。謝ることは、権利なのだ。

 

謝らなくていい相手なら、謝らなくていいよそんなの、と言うだろう。それで関係が終わるなら、息子にとってその程度の相手だということだ。息子がそれでいいなら、それでいい。

 

息子が私を嫌いになったら、それはそれでいい。彼が私をどんなに嫌いになったとしても、私は息子を嫌いにはならないだろう。私がいつ、どんな風に、どれだけ息子を傷つけているか、私には分からないから。私の精一杯が、彼を思い切り傷つけているかもしれないから。それで彼が傷ついているとしたら、謝るしかない。謝って、許してくれるなら嬉しい。けど、許してくれないとしたら、息子にとっての私は、その程度の母親だということだ。息子がそれでいいなら、それでいい。

 

ありゃー、久しぶりに1000字を超えてしまいました。どんだけ息子好きやねん、私。

私を幸せにしてくれる若者

久しぶりに長男と話した。なんだかいつになくキゲンのいい中1男子。キゲンのいい息子を見ているだけで幸せな四十路女。

 

気づけばもうすぐで中学生になって1年が終わっちゃうんだね、と言ったら、そうなんだよ!と。

 

「このまま普通に3年間が終わるとは思えないけどね」

 

と、さらっと現実的なことを言うところが、あの子のすごいところ。

 

そうそう、このまま何事もなく中学校生活が終わるとは思えない。ここまでの10ヶ月近く、何もトラブルなかったのが幸いなのだ。この先、人間関係だって何が起こるか分からないし、まさに中2病の14歳がやってくるし、勉強だっていつ、ついていけなくなるか分からない。(まあ、今もすでに英語がついていけなくて塾に行き始めたけど。)

 

けど、私が「君は大丈夫だよ」と言うと、

 

「いつも母さんがそう言うのを、俺は信じてるよ」

 

と、これまたさらっと、すごいことを言ってくれる13歳。きゅーん。

 

私は息子のことを信じているし、息子はそう言う母親を信じている。なんだか意味合いは違うけれど、これも1つの信頼関係で結ばれた母子、じゃない?

 

そのあともずっと、「これまでだってずっと君はそのとき、そのときで新しい友達を作ることができてきたでしょ」とか、「この先の可能性はまだ決まってないけど、この先も君に自分を幸せだと思える能力があるのはもう決まってるようなもんだと思わない?」とか、なんだか、気持ちのいい若者と、とても希望のある、そして理想に逃げない、安心感のある会話ができて、私はとても満足だ。

 

あー、息子、ラブ。好き好き大好き。ちょー愛してる。

 

自分を褒めて生き延びる

おはようございます。

 

6時25分から29分まで、布団の中でラジオを聞いていて、このまま布団から出ないでラジオ体操を聴く、という手もあるのだよな…と思ったけれど、せっかく18日間続けてきた実績がここで途切れる、と思ったら悔しくて、布団から出ることができました。ここまで来ました。私、エラい。

 

しかしまー、身体がガチガチです。ラジオ体操、第一と第二と、てきとーに体を動かしてはいるものの、可動域がめっちゃ小さい。ラジオ体操とは別のストレッチを、最近は全然できていないので。

 

映画も見てないし。本も読んでないし。

 

だけど、ラジオ体操と語学の勉強は続けている。人間、そんなに多くのことはできないのだ。これだけはやる、と決めたことをやっているだけでも、私、エラい。

 

こうして、自分をほめて、ほめて、生き延びていくのです。あー、1週間、よく頑張った。私、エラい。

 

はい、今日も引き続き頑張りましょう。

 

おつかれさーん

へにゃへにゃへにゃ。疲れた。疲れたけど、まあいい。好きでやってる仕事だから。

 

昔から、「疲れた」はいいけど、「疲れてる」はあんまりよくないな、と思っていた。「疲れた」は何か、疲れるほどに動いたり考えたり働いたり遊んだりして、結果、疲れた。ということ。

 

だけど、「疲れてる」は、状態だから。疲れて、いる、という、その、いる状態、が続くのはよくないんじゃないかな、と。

 

疲れたら、ちゃんと回復して、疲れをとって、元気になって、また疲れることのできる状態にならなくては。疲れていたら、疲れることさえできないんだぞ。

 

とにかく私は今日は疲れた。だから、休む。休んで、回復して、また明日、しっかり疲れるくらい働こう。

 

おやすみなさい。(これから会社を出るんですけどね。)

 

駆け落ちというわけではないけれど

おはようございます。残念ながら、私も生きてます。生きちゃってます。うひひひひ。

 

私には今、大好きな人がいて、別の人から、その人がもしかして元気ないかもよ、って言われて、私が苦しめてるのかなって思って、どうか、苦しまないでって、苦しめてたらごめんね、ってメールしたら、そんなことないよ、私はうさぎさんが大好きよ、って返事が来て、うれしくて、泣いてる。

 

好きな人がいると苦しい。その人の苦しみを取り除いてあげたくて、でも、その人じゃない自分にできることって、本当に少なくて、もどかしくて、苦しい。

 

だけど、私は人を好きになってしまうのよ。男性だけじゃなくて、ママ友のことも、産んだ子供のことも、なぜだかわからないけど、大好きって、思ってしまうのよ。

 

大好きな、ママ友と、愛の逃避行だ。私たちを苦しめるような人や組織からは、逃げるだけ。ニコニコ笑って、逃げてやる~!

 

逃げ方にもいろいろある

今朝、怒りたくなくて戦いたくないから逃げようと努力している、みたいなことを書いたのだけれど、友人と話していたら、私のやろうとしている逃げ方は、責任とってからきちんと逃げる、という体をなそうとしているらしく、逃げるならもっと適当に、もっとさっさと、責任なんて何にも考えないで逃げちゃえばいいんじゃん?というようなことを言われた。

 

なるほど。

 

フェードアウト、という手もある。気づいたらいなくなってた、みたいな。

 

そうだよなあ。

 

ちゃんと逃げようと思ったら、逃げ切るまで後ろを気にしなきゃいけないもんなあ。ずっとへらへら笑顔を見せて、ずりずり、ずりずり、後じさりして見えなくなるところまで行ってしまえばよいのだよなあ。

 

アホらし。

 

やめた、やめた。もう、気を使ったり、できる限りのことをしようと考えたりするの、やめた。

 

人生は、楽しむためにある。

 

おやすみなさい。

 

勉強してから寝るけど。

 

 

誰かのせいにはしない

おはようございます。起きてます。既にフル稼働で、今、電車の中。

私はかなり素直に感情を動かす人間だと思うのだけど、とある人物の前だと、怒りを出さないために、必死で感情を殺さなければいけないのがツラい。そんな人とつき合わなければいけないこの状況がツラい。

なんとかして、逃げる方法を、必死で考えている。

戦いたくないから、逃げるしかないのだ。逃げろや逃げろ。えっさかほいさ。